箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

イノベーションスピードの劇的変化は努力の価値すらも変容させている。

イノベーションスピード

 元からサボり癖のある人も、そうでない人も、「出来れば楽して成果を挙げたい」という、費用対効果や労働対効果を求める思考が少なからずあると思います。このような人類普遍の根底的共通認識のおかげで、テクノロジーが進歩した結果、我々の暮らしには「楽(ラク)」が溢れているわけで。

 

 そのようなラクな世の中になった現在において、巷でよく聞く「人類退化論」などはいったんすっ飛ばします。まあ、すっ飛ばすと言っても多少関連はあるんですけど。

 

 最近ですね。外国語を全く話せない他部署の先輩が、こんなことを話していたんです。「あと10年もすれば、会話やメールがタイムレスに自動翻訳される世の中になる。そうなれば別に他言語を学ぶ必要はなくなるし、今から語学習得に向けて勉強することは時間のムダになる」と。

 「10年」というのは、その先輩の見通しに過ぎませんが(根拠があったらすみません)、まあ、確かにそれほど遠くない将来において、そのような時代は来るのでしょうね。多くのビジネスパーソンにとって、外国語は単なるコミュニケーションツールに過ぎず、意思疎通を図ることが出来ればそれで足りるため、一生懸命努力して語学をマスターしても、それに代替するものがほぼ確約されているのであれば、「努力対効果が割に合わない」という先輩の言い分も一理あると思います。

 

 ただですね。その先輩は決して間違ったことを言っていないのに、私の胸には複雑な感情が去来していました。私は多少なりとも英語を勉強してきたつもりなんですが、そういった語学の勉強に時間を割いて来なかった先輩に対する怒りとか、批判感情ではなく、「こういったシーンに今後も遭遇するのだろう」という、何と形容してよいのか分からない気持ちです。

 

人類の歴史は“取って代わられてきた”もの

 この気持ちを説明するために、話を少し脱線します。誤解を恐れずに言いますと、人類の歴史は、テクノロジーの発展によって生活の豊かさを手に入れてきた反面、テクノロジーに裏切られてきた歴史だと言えます。

 かつて、長距離移動の手段を持っていなかった人類は、馬を家畜化し、騎乗技術を発展させ、陸上最速移動手段としての馬を飼い慣らしてきました。日常の移動手段としてだけではなく、戦争にも利用されていたため、多くの馬を繁殖させる必要があり、その家畜化・繁殖化の過程は決して平坦ではなかったと想像します。

 しかし、鉄道や自動車が発明されるに至ると、もはや移動手段としての馬は必要なくなりました。テクノロジーの発展が、移動手段としての馬を駆逐したのです。人類のこれまでの努力が無に帰したとは言いませんが、現在、馬は、競争馬や馬術競技などのエンターテインメント・スポーツ用途、食肉用途の方面で飼育されています。

 

 このように、人類がこれまで多くの時間と労力を費やしてきたものが、テクノロジーの発展によって覆されるという事例は、他にも枚挙に暇がありません。「覆される」というより、「取って代わられた(パラダイムシフト)」という表現の方が適切でしょうか。

 しかし、上記のとおり、馬の家畜化の努力は、別の方面で活かされていますし、その他人類が費やしてきた努力もこれに当てはまることが多いと勝手に思っています。例えば、コピー技術に "取って代わられた" 版画技術は、浮世絵などの伝統芸術の世界で今も生きています。

 会社の先輩から聞いた外国語の習得についても同じです。確かに、「コミュニケーション手段」としての外国語は、テクノロジーの発展に伴い、他の何かに取って代わられるかもしれませんが、例えば、日本人の中でも、正しい発音・アクセント・イントネーションで洋楽を歌いたいといった別の目的を有している人にとっては、語学を学習する意味は尚も存続し続けるはずです。

 

 ここまで書くと、「ああ、なるほど。テクノロジーの発展に伴って、これまで努力してきたものが、別の何かに取って代わられることはあるけれども、その努力の過程は別の形で活かされるから、決して無駄にはならないということを言いたいんだな?」と思われるかもしれませんが、そういうことが言いたいわけじゃないんですよ。

 

 イノベーションによって、現在の技術が別の何かに取って代わられることは人類の常なんですが、昔はこのスピードが100年、200年、下手をすれば1000年単位であったのに対して、ここ数十年で急激にスピードが加速し、取って代わられるスパンが10年ぐらいの単位になってきている(特にIT分野において顕著)というのが、まず1点目です。

 要するに、昔は、少なくとも自分が生きている間、技術水準はほぼ変わらないという前提だったのに対し、今や、自分が生きている間に、何度も "取って代わられること" がぼんやりと予測できてしまっていると言えます。今発売されているiPhoneの新型機種にしても、来年にはまた新しい機種が出て、その翌年にでもなれば、現行機種はもはや使い古されていると予測できます。10年後には、「スマートフォン」というデバイスに取って代わる別の何かが普及していると言われても、そこまで突拍子のない話だとは思わないでしょう。

 

 そして、そのような未来を予測できてしまうがために、眼前の技術水準に合わせた生活やビジネスは成立しづらくなってきており、我々は、常に、この "取って代わられる" ということを意識した行動を迫られます。

 しかし、その一方で、じゃあ10年後、20年後という近い将来を具体的に予測できるか?と問われると、首を縦に振ることはできません。ホリエモンこと堀江氏も、近畿大学の卒業式のスピーチで、未来を見通すことの困難さを説いています。時代の最先端を突っ走るビジネスリーダーでさえ、10年後どうなっているかなんてよく分からないんです。

 つまりですね。「10年後、間違いなく世の中は変わっている。だけど、具体的にどのように変わっているかは分からない」という状況です。これに対し、堀江氏は「未来を恐れず、過去に執着せず、今を生きろ」と卒業生たちに投げかけていますが、我々は、"取って代わられること" を前提とした生き方を選択しなければならないものの、具体的な選択については、不確定要素を多分に含んでいる中で、ある種のギャンブルをしなければなりません。

 

努力の価値は

 話を元に戻しましょうか。上記先輩の予測が正しいとすると、10年後、「一生懸命語学を勉強したものの、別の何かに取って代わられた人」と「そのイノベーションの恩恵を見事に享受できた人」が出て来ます。

    そして、おそらく、語学学習に限らず、あらゆる分野において、「取って代わられた人」と「恩恵に与られた人」が出てくるはずです。将来無くなる仕事とかいう特集がありますけど、あれに近しい話かもしれません。私の胸に去来した形容し難い感情は、「イノベーションによって人類の暮らしは豊かになったが、そこには、努力した人だけが報われるという大前提があったはずなのに、努力しなかった人も努力した人と同等の恩恵を受けられ、それどころか、別のことに労力を割いた分、イノベーションによる恩恵分だけ得をしているというおかしな図式になっている。イノベーションが物凄い回転率で発生したとすれば、我々が日々直面する数々の選択は、リスクの高いギャンブルそのものではないか」というものです。元々、資本主義社会とはそういうものだと言われたらそれまでですが。

 

    ね?形容し難いというか、訳が分からないでしょう?ww すみません。

    そんなことを長々と考えた夏の日でした。