最近の漫画作品を読んでいて、世界観に引き込まれるものが少ないなーと感じる。
誤解のないように伝えておくと、今の漫画家さんは純粋に画力が高い。マジでビビるぐらい高い。キャラクターデザインも凝ったものが多く、背景の作画もレベルの高いアシスタントさんのおけげもあってか、思わず「上手い!」と唸ってしまうほどだ。画力だけで言うなら、ここ数年で漫画界のレベルは数段階上がったんじゃないだろうか。
…だが、しかし。
「その作品の世界にどっぷり浸かりたい」というものがない。1回読んで「あー面白かった」って満足したらそこで終了。それ以上の余韻がない。僕はいい歳したオッサンなので、そんな簡単に感動しなくなったということも要因の一つかもしれないが、おそらく原因はそれだけではないと思う。
「世界観を作り込む」ということ
決して懐古厨になりたいわけではないけど、少し昔を振り返らせて欲しい。
昔は、大友先生の「AKIRA」とか、鳥山先生の「DRAGON BALL」とか、アニメだったら宮崎先生のジブリ作品とか、世界観に目を奪われる作品も少なくなかった。「紅の豚」や「魔女の宅急便」の世界に行ってみたいと思った人は僕だけじゃないはずだ。
尾田先生の「ONE PIECE」の世界観は言わずもがな、最近だったら、諫山先生の「進撃の巨人」、新海先生の「君の名は」といった作品も、ハッと息を呑む風景を見せてくれる。空気感まで伝わってくる作品というのはなかなかお目にかかれない。
個人的には、その中でも押井守監督作品の世界観が大好きで、「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の細部まで緻密に作り込まれた雑多な街並みに度肝を抜かされたことを思い出す。初めて見たときはかなりの衝撃だった。
当時「攻殻機動隊」の基本的な世界観として、ひと昔前の香港を参考にしたんですよ。要は、毛筆体の漢字とアルファベットと数字がごちゃごちゃに混ざった看板が、都市空間に雑然とひしめき合ってるイメージ。
ー押井守監督のインタビュー記事より
これらの巨匠が描き出す世界観について、他の作品と何が違うのかと聞かれたら、僕は「そこで描かれている世界が感覚的なものかどうか」「その世界を体験してみたいと思えるかどうか」という点だと考えている。
いっそのこと「官能的(官能性)」と言い換えても良いかもしれない。この世のどこにも存在しない架空の世界を描いていながら、「本当にこの世のどこかに存在するかもしれない」と思えてしまう妙なリアリティこそが「官能的な世界観」ということに他ならず、「作り込まれた世界観」ということだ。
ちなみに、宮崎駿先生は官能性について以下のように述べて、作品を作り込む、世界観を作り込む、ということがどういうことなのかを教えてくれている気がする。
走る少年を描くときにですね、足の裏にくい込む石の痛さとか、まとわりつく服の裾とか、そういうものを感じながら、走るっていうことを何とか表現したいって机にかじりつくのが、ぼくらにとっての官能性です。
近年の漫画作品における官能性の欠如
まあ、要するに最近の作品は官能性がない。
カッコいい・可愛い見た目のキャラを出しとけば、読者はブヒブヒ言ってくれるでしょと言わんばかりに、表層的なデザインに走ったものが多く、圧倒的に世界観の作り込みが足りないと感じる。デッサン的には正しいし、デザインも今風の流行りの絵柄で描かれているんだけど、逆に言うと無個性だ。
背景作画も非常に上手いんだけども、何かの資料を見て描いたと思しき絵ばかりで、世界の奥深さを感じられないし、そもそもタイパ(タイムパフォーマンス)が悪いと思っているのか、背景を描かない人も非常に多い。
奥浩哉先生も「背景描かないから位置関係もわかんないし、なんかデフォルメパースの人物ポーズだけ並べた感じで本当に何やってるのかわからない」と述べて、最近の漫画が読みにくいと苦言を呈されている。
そういった作品でも人気が出て、アニメ化されるもんだから、編集者も何も言わなくなり、キャラ偏重の表層的なデザインの作品が市場に溢れかえっているわけだ。
(※)ひとつ断っておくと、全ての作品がそうだと言ってるわけではないし、「面白いかどうか」という話をしているわけではないという点だけ留意して欲しい。
世界観を軽視する風潮とオープンワールド
僕は、このように世界観を軽視する風潮について、近年のオープンワールドゲームに対するユーザーのスタンスに近しいものを感じている。
『オープンワールド』とは、ゲームのジャンルの一つであり、広大なマップがロードを挟むことなくシームレスに繋がっているレベルデザインのことをいう。「Grand Theft Auto5」や「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」といったゲームが有名だ。
そんなオープンワールドゲームに対して、「マップが広いだけで何も起こらないし、移動が面倒くさい」と批判する人がいる。僕は、この批判こそが世界観を軽視する風潮・世相を端的に言い表していると感じる。
…すなわち、
世界観を軽視する風潮は、世界の余白を無駄と感じるところから来ている。
オープンワールドを批判する人にとって、イベントが発生しないマップは無駄以外の何物でもなく、ただ機械的に移動しているだけの退屈な時間に過ぎない。早く物語を動かしてくれ…と文句を言うわけだ。
漫画作品における世界観も全く同じで、世界観を作り込んだところで、それは物語の本筋とは何の関係もない。だから読者は、そんなものを作り込むぐらいだったら、「キャラの感情を見せろ」「もっと物語を動かせ」…と思うし、読者がそう思っている以上、世界観を作り込むことは無駄でしかないので、作家もどんどん世界観を蔑ろにしていく。
現在の漫画作品を取り巻く負のスパイラルはこのような世相から発生している。少なくとも僕はそう思っている。
物語の本質とは何か
ただ、そうは言っても、この傾向はどうにもならんと思う。
漫画は物語やキャラを売っているのであって、世界観を売っているわけではない。どこまでいっても、世界観は副次的なものに過ぎない。それだけで飯は食えないし、世界観を極めたいというのであれば、コンセプトアートでも描けば良いじゃんと言われそうだ。
それは分かっているんだけども、じゃあ無駄なものなので作品から排除しても良いかと言われると決してそうではない。「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」に出てくる看板が全て同じ書体で書かれていても良いはずがないし、「進撃の巨人」に出てくる壁のデザインが適当で良いはずがない。
つまるところ、物語の本質をどう捉えるかという問題のような気もする。物語とは、キャラによって成り立っていると考えるのであれば、世界観は邪魔だし無駄だ。結局、その比重の問題であって、現代はキャラの比重が極めて高いということなんだろう。
少なくとも僕は、そういう傾向を是としないし、自分の漫画創作においては「官能的な世界観」を大事にしていきたいと思っている。