箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

「イジメはどうやったら無くなるのか?」という議論をさっさとやめるべき。

イジメはどうやったら無くなると思いますか?」みたいな議論テーマって昔からずーっとあるし、「真剣10代しゃべり場」のような討論番組でも散々議論されてきた(今の若い人は知らないか)。

それどころか、「イジメる側とイジメられる側のどちらが悪い?」みたいな愚かしいテーマで議論されることもあって、僕はこういう議論を見ると、イジメ問題の深刻さをまざまざと思い知らされる気分になる。世間の認識は、何十年にもわたって変わらないんだなーって。

 

 

1. イジメ問題の根底にある暗黙の了解

「イジメはどうやったら無くなるのか?」

「イジメる側とイジメられる側はどちらが悪いのか?」

 

…といった議論は、全て「イジメは学校教育現場等で起こる子ども達のいざこざであって、通常の犯罪とは異なる特殊な問題」という暗黙の了解が前提にある。

 

冷静に考えてみて欲しい。「犯罪はどうやったら無くなると思いますか?」「犯罪者と犯罪被害者のどちらが悪いですか?」なんて大真面目に議論しないし、もし仮に、そんな議論を吹っ掛けられても、貴方は鼻で笑い飛ばすはずだ。

どんなに国の教育レベルを上げても、どれだけ治安を良くしても、人間社会において犯罪は無くならないと分かっているし、犯罪者が100%悪いことも分かっている。既に答えが出ている愚問だ、と。

 

にもかかわらず、「イジメはどうやったら無くなるのか?」「イジメる側とイジメられる側のどちらが悪いのか?」と大真面目に議論をしている時点で、「イジメは犯罪とは異なる特殊な問題」と理解していることに他ならない。

 

はっきり言おう。

「イジメはどうやったら無くなるのか?」なんて馬鹿みたい議論はさっさとやめるべきである。

 

2. イジメ問題の議論の方向性

これからのイジメ問題の議論の方向性は、「イジメは通常の犯罪と同じである」という理解に立った上で、イジメが発生することを前提にした自主防衛策を議論すべきだ。

 

こういうことを言うと、「イジメを野放して良いのか」「イジメる側を放置するのか」と噛み付いてくる人が一定数いるけども、そう言う人は、イジメ問題の本質が分かっていない。

イジメをゼロに出来るのであれば、もちろんそれが究極の理想であり、人類はそれを目指すべきだと思う。しかし、人類は社会を形成したその時から今日に至るまで、ずーーっと犯罪ゼロ社会を目指して頑張ってきたけれど、決して犯罪をゼロには出来なかった。世界トップクラスの治安・教育レベルを誇る日本でも、残念ながら犯罪ゼロ社会は実現出来ていない。

 

要するに、今のところ犯罪をゼロにする方策を人類は見つけていない。

 

***

 

だから、我々は「この社会には他人に迷惑をかける犯罪者がいる」ということを前提に日々の生活を送らざるを得ない。例えば、外を出歩く時に財布をそこらへんに放置する人なんていないだろう。貴重品は肌身離さず大切に持ち歩いているはずだ。時にはコインロッカーに貴重品を預けたり、盗難保険に加入したりもする。これは「自分たちの身近に人の物を盗む犯罪者がいる」ということを前提とした自主防衛策に他ならない。

これに対して、「人の物を盗む奴が悪いのに、なぜ善良な市民が自主防衛策を講じなければならないのか。諸悪の根源は人の物を盗む犯罪者なのだから、そういう犯罪者を無くす方策を社会は模索すべきである」と本気で訴えかける人がいるだろうか。もちろん窃盗犯を社会から根絶できるのであれば、それに越したことはない。しかし、それが出来ないからこそ、我々は窃盗被害から身を守る術を1人1人が講じていかなければならないわけで、それが市民社会を生きるということである。

 

この理屈はイジメも全く同じである。

イジメは犯罪と同じで決してゼロには出来ない。だからこそ、「この社会には人のことを傷つけないと気が済まないイジメっ子がいる」という理解を前提に、そういうイジメの被害を最小限に抑えるためにどうすれば良いか…ということを考えなければならない。その方が「どうやったらイジメをなくせるか?」と考えるよりよっぽど有益だ。

 

※なお、余談であるが、少し前に朝倉未来さんが「いじめられる側にも原因がある」と発言して炎上していた。これは「原因がある」という表現が若干不適切だっただけで、朝倉さんが言わんとしていることも全く同じである。「イジメは無くならないのだから、イジメが起こることを前提に、その対処法を身につけるべき」と彼は言ってるに過ぎない。

npn.co.jp

 

3. アメリカでホームスクーリングが認められている理由

しかし、日本では、なぜか「イジメと犯罪は違う」と考える人が多い。

 

行為の主体が子どもだからか、あるいは、子ども同士のイタズラに過ぎないからか、いずれにせよ日本の教育現場は、イジメと犯罪は違うものと認識し、イジメは解決できる問題だと考えているようである。

だが、僕から言わせると、この理解自体がそもそもの誤りであり、そんなことを言ってるから、イジメ問題は一向に解決しないのだ。

 

例えば、アメリカでは、当たり前のようにホームスクーリングが認められている。その傾向は年々強くなっており、学校に通わずにホームスクールを選ぶ家庭は、ここ10年ぐらいで倍増しているという。

kotaenonai.org

 

なぜ、ホームスクーリングが当たり前のように認められていて、それを選択する家庭が増えているかと言うと、アメリカは日本とは比べ物にならないぐらい教育格差が大きく、荒れている学校も多いので、そんな危険な場所に子どもを通わせることは出来ないという合理的な判断に基づいている。

日本では到底考えられないが、アメリカの学校では、銃を持ってきたり、ドラッグの取引をする生徒もいる。犯罪の温床になっているぐらい危険な場所なのだ。

(それ以外にも宗教上の理由もあると言われているが、ここでは取り上げない)

 

つまり、社会全体が、「学校には犯罪者や犯罪者予備軍の子どもがいる」ということをちゃんと認識している。子どもだからと言って全く特別扱いをしない。危険なものは危険なのだ。

 

4. 危険な存在から距離を取ることの重要性

その上で、アメリカでは「学校に行かない」という選択を認めている。

要するに、「学校には犯罪者や犯罪者予備軍の危険な生徒がいるので、そういう危険な生徒と距離を取る」ということを社会全体が許容しているわけだ。

しかし、日本の教育は真逆で、たとえイジメの問題が起きようとも、そういう相性の悪い生徒に対して「仲良くしなさい」と先生が諭す。一年生の歌の「友達100人できるかな」という歌詞が示しているとおり、この国では「仲良くすることが正しい」と子ども達に教えている。

 

だが、はっきり言おう。この考え方は詭弁であり、洗脳である。

 

付き合うべき人間を選ぶ」なんて当たり前だし、「相手が誰であろうと、全員と等しく仲良くしなければならない」と考えて生きている人間なんていない。会社にパワハラ・セクハラ上司がいれば、誰しもが転職や休職を考えるだろうし、価値観の異なる人とビジネスパートナーになろうと思う人なんていない。話が合わなければもう二度と連絡することもないだろう。

私たち大人にとって、人と距離を取りながら生きることは当たり前の選択であり、常識であるにもかかわらず、子ども達に対しては「全員と別け隔てなく仲良くしなさい」と教えている。これを詭弁と言わずして何と言うのか。むしろ、そんなことを教えているから、日本人は人との距離の取り方が下手だと言われ、イジメの問題が深刻化するのだ。

 

もし、学校で相性の悪い生徒がいたら、「仲良くしなさい」ではなく、「あなた達は相性が悪いのだから、ちゃんと距離を取りなさい」が正解だと思う。

そうやって、子ども達に人との距離の取り方を教えることが、イジメに対する自主防衛策になるし、大人になってから必須になる対人スキルを習得することにも繋がる。

 

結局のところ、イジメを美化し、人との距離を何でもかんでも縮めようとするから、学校で苦しむ生徒が増えるのであって、相手がたとえ子どもだろうと、「危険なものは危険」と教えるべきだと思うし、社会全体が危険なものを排除するか、あるいは、危険なものから適切な距離を取ることを推奨することで、イジメ被害は緩和されていくと個人的には考えている。

 

少なくとも僕だったら、自分の子どもにそう教える。