箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

抽象的なイメージを共有することの重要性と多様性社会の実現

僕は普段趣味で漫画を描くことが多いが、出版社の編集者と打ち合わせをしながら、仕事として漫画を描くときもある。

まあ、要するに、連載を持っていない売れない作家…というやつだ。本日お話する内容は、そういう売れない漫画家が言う戯言だと思って聞いて欲しい。

 

 

1.「映画を早送りで観る人たち」が示す情報共有の在り方

僕は、イメージとか、世界観とか、何となく描いてみたいシーンとか、そういうボンヤリとした抽象的なものをフックとして作品を描くことが多い。

だから、作品のテーマとか、ストーリーとか、キャラクターとか、そういう具体的なものは全て後付けである。ちなみに、調べてみると、僕と同じようなタイプの人は少なからずいるらしい。

 

しかし、こういう作り方をしていると、非常に困るのが編集者との打ち合わせ(企画会議)である。

何せ編集者に「面白い」と思わせないと、企画は通らないので、一生懸命に企画を説明するわけだが、いかんせんイメージが先行しているため、上手く伝わらない部分が多く、最終的には編集者の頭の中に大量のはてなマークを生み出して企画会議は幕を閉じる(当然ながら企画は通らない)。

 

じゃあ、どうするかと言うと、編集者に企画を理解してもらうために、いったん抽象的なイメージとか世界観といったものは脇に置いといて、具体化したストーリーを伝えることになる。

これは漫画創作に限った話ではなく、ありとあらゆる場面において共通する話であり、SNSで情報を共有することが当たり前になった現代社会においては、特に重要視される事柄だと思う。

要するに、コミュニティ内で仲間と共有できないような抽象的な情報(分かりづらい情報)に価値はなく、出来る限り分かりやすく具体化された情報だけが共有され、拡散される。抽象的なイメージを具体的な思想・価値観に昇華させた場合にだけ価値が見出される時代なのだ。

 

話のベクトルは少し違うかもしれないが、「映画を早送りで観る人たち」の中で説明されている現代人の感覚とは、そういうことだと個人的には理解している。

 

2.情報共有の先にある「社会の分断」と「多様性の喪失」

僕は、抽象的な情報を切り捨て、具体化された思想・価値観だけが共有されるようになった先にあるものは、「社会の分断」と「多様性の喪失」だと考えている。そして、現代社会はまさにその問題に直面していると言える。

 

例えば、(議論のテーマは何でも良いのだが)選択的夫婦別姓について議論する場面を想起してみる。

おそらく、大半の人が、賛成派・反対派が具体的にどういう議論をしているのかを調べた上で自分の考え方を形成し、それを他人と共有するはずだ。「通称名の使用を認めれば事足りるので、民法を改正してまで選択的夫婦別姓を認める必要はない」とか、「夫婦同姓を強いるのは、伝統的な戸籍制度に固執した古い価値観であって、現代的な家族観にそぐわない」とか、そういった具合だ。

(その過程で、ひろゆきさんのようなインフルエンサーの考え方に影響を受ける人が多いのは言うまでもない)

 

そういう風に、選択的夫婦別姓に対する考え方が具体化されていくと、他人との対立点がより鮮明化されて社会の分断が加速することになる。SNSが普及する以前から社会は分断していたので、社会の分断は「可視化」されただけだと言う人もいるが、言わんとしていることはほとんど同じである。

 

***

 

もし、「社会の分断は民主主義の宿命」と言うなら、僕はこの論点について、これ以上何も言うつもりはない。社会とはそういうものなんだろう。しかし、「多様性の喪失」についてはどうだろうか。

 

私たちは、自分の考え方を自由に選択・形成し、多様性を獲得していると考えているが、一部の知識特権階級に属する人を除き、それは錯覚だと言い切ってもいい。情報をコントロールされている大半の市民は、先ほどの選択的夫婦別姓でも説明したとおり、既に社会に存在する情報に従って、自分のポジションを選択しているに過ぎないのだ。

議論のテーマは何でも良い。選択的夫婦別姓でも、死刑制度の可否でも、消費増税の問題でも良い。それらのテーマについて具体的な考えを形成しようと思えば思うほど、既存の情報に左右されて、思想は並列化していき、社会から多様性がどんどん失われていく。

 

そして、そのような問題は、政治的な議論をする場にとどまらず、物語創作のような文化的・芸術的領域でも発生している。

具体的な情報だけが共有・拡散されるようになった現代社会において、物語の作り方もテンプレ化・セオリー化されて、あちこちで共有されるようになった。設定やキャラクターだけを変えて、物語構成は他の人気作品と同じ…というものが多いのも決して気のせいではない。

 

皆さんがどう考えるかは分からないが、僕は現代社会が陥っているこのような状況を是としない。

 

3.抽象的なイメージを共有する重要性

僕は、多様性が失われつつある現代社会の状況に鑑み、具体的な思想・価値観を共有することの限界を感じている。そして、一部の知識特権階級に属する人を除き、現代人はすべからく抽象的なイメージを共有することにシフトチェンジすべきだと思う。

 

「抽象的なイメージ」が分かりづらいと言うのであれば、その人を形成している「原体験」とか「原体験に基づくイメージ」と言い換えてもいい。このような「原体験」や「原体験に基づくイメージ」は誰にでもあるし、絶対に他人と被らない。そして、絶対に具体的に説明できない。

 

例えば、僕は幼少の頃に「布団叩き」を使って1人遊びをするのが好きだった。布団叩きの棒を剣に見立てて、チャンバラごっこをしたり、1人で妄想に耽るのだ。

何故、布団叩きを使って遊ぶのが楽しいのかと聞かれても、上手く説明できない。もし仮に、無理やりにでも具体的に説明しようとすると、言語化した時点で、それは僕が幼少期に体験したものとは別のものになってしまう。

 

子どもたちに虫捕りを薦めている養老先生が、ある時保護者から「なぜ、子どもの教育に虫捕りが良いのですか?」と聞かれ、「そんなものを理解する必要はない。とにかく子どもたちに体験させたら良い」と答えていた。要するに、幼少期の原体験に良いも悪いもなく、具体的に言語化できるものではない…ということだ。

 

現代人の感覚からすると、他人と共有するのが難しい抽象的な情報は無価値ということになりそうだが、具体化された思想・価値観の方が抽象的なイメージよりも高次の情報という考え方自体が間違いである。

仏教の創始者であるブッダは、厳しい修行の果てに悟りを得て、それを民衆に説くためにサンスクリット語言語化した。しかし、一部の宗教学者に言わせると、言語化した時点でそれはブッダが得た悟りとは違うものであり、さらにそれはブッダの内面に存在する悟りよりも価値の低いものだと言う。

 

本来、具体的な思想・価値観に昇華される前の抽象的なイメージの方が情報としての価値が高く、それを共有することで本当の意味での多様性社会が実現されると僕は考える。何度も言うように、そのような抽象的なイメージは絶対に他人と被らないからだ。

 

たぶん、こういったことを言うと、「他人に具体的に説明できて初めて情報としての価値がある」などと言われそうだが、そう云う人とは永遠に分かり合えないかもしれない。具体的に説明する必要がないし、それをしてしまうと多様性が失われてしまう…というのが、ここでの議論の出発点だからだ。

 

抽象的なイメージを共有する方法など、他にも突っ込まれる箇所はあると思うが、イメージを形にするのが漫画創作の醍醐味であり、僕が言っていることは、ある意味漫画創作の原点ではないかと思っている。

 

4.むすびに〜真の多様性社会とは何か〜

そもそも「多様性社会」という言葉自体が非常に胡散臭いと言えなくもない。なぜなら、多様であることは当たり前だからだ。

 

人間は、国籍、人種、肌の色、民族、文化、宗教、言語といったありとあらゆる差異があり、生まれ育った家庭環境も、思想も、価値観も違う。そして、「多様性社会」とは、そういった差異を認め合う社会のことを指し示しているわけだが、お互いの差異を尊重するなんて、当たり前のことを言っているに過ぎない。

つまり、そういった当たり前のことを、わざわざ「多様性社会」という言葉を使って力説しなければならない時点で、「この社会は多様ではない」と言っているに等しい。私にとって「多様性社会」という言葉は、非多様性社会を標榜する記号に成り下がってしまっている。

 

そうであるにもかかわらず、私たちは何の違和感もなく「多様性社会」という言葉を使うし、この社会は多様だと信じている。むしろ、問題なのはその点なのかもしれない。

そういう意味では、真の多様性社会とは、当たり前のように多様性がそこに存在し、「多様性社会」という言葉を使わなくなった時だろうと思う。