箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

ファンタジーを題材にした場合のキャラの服装デザインについて

ファンタジーを題材にしていると、おそらく一番悩むのはキャラの服装だと思う。

 

その一方で、現代を舞台にするのであれば、ぶっちゃけ、国や人種による服装の違いなんてほぼ無いし、いくらでも服装の資料は手に入るため、ほとんど悩むことはない。

ビジネスマンであればスーツを着ているし、セクシーな女性は胸元が開いたドレスを着ているし、子どもは半ズボンだ。どこの国・地域でも変わりがない。日本には中・高校生が着用する制服というやや特殊な衣装文化があるけど、いずれにせよ服装資料なんて簡単に手に入る。

 

つまり、作品の舞台として「現代」を選択すれば、服装のデザインで悩むことはほぼ無いと言い切ってもいい。

 

ところが、ファンタジー(現代ファンタジーを除く)を題材にしていると、いつの時代の、どこの国の衣装を参考にするかによって、デザインが全く異なる。戦国時代の日本なのか、それとも中世期のヨーロッパなのか、はたまたゴールドラッシュ期のアメリカなのか。民族衣装ひとつを取っても、山岳民族なのか、それとも温暖な気候のもとで暮らす農耕民族なのかによってもデザインは異なってくる。

さらに、ファンタジー衣装というのは、幕末期の日本の和装とか、よくあるドラゴンクエストの世界に出てくるヨーロッパっぽい衣装とか、人気のあるジャンルであれば、いくらでも服装資料は手に入るんだけども、そうではなく、例えば、森薫先生の「乙嫁語り」とか、宮崎駿先生の「風の谷のナウシカ」「シュナの旅」のように、マイナーな地域を選択すると、途端に服装で困ることになる。服装資料がほとんど無いからだ。

 

だから、漫画やアニメで採用されるファンタジー衣装のデザインは、時代や地域の概念に囚われずに、現代的な要素も多く取り入れて、読者の目を引く独自のデザインを志向する傾向にある。

 

例えば、尾田先生の「ONE PIECE」は、和装のキャラが出てきたり、現代的な洋服(スーツなど)のキャラが出てきたりと、時代や地域概念がかなりあやふやなファンタジーになっている。大航海時代と言うと、普通は16世紀頃の中世ヨーロッパを想像するんだけど、その時代・地域に限定してしまうと、キャラのデザインが画一化されてしまうため、時代や地域の概念をもっと拡張して、自由な作風を目指されたんだろうと想像する。その結果、キャラの服装デザインは非常にバリエーションに富んだものになっている。

 

裏那先生の「ガチアクタ」に至っては、いつの時代の、どこの国を参考にしたものなのか、元ネタすら分からない。主人公ルドや育て親であるレグトの服装は、奇抜な柄が入っていたりして、やや民族衣装っぽい感じなのだが、リヨウやエンジンは現代的というか、パンクな服装をしており、ザンカの服装は少しオリエンタルな印象を受ける。まあ、要するに、ONE PIECEと同じで、色んな時代・国の文化がごちゃ混ぜになっている。

 

こういう風に、漫画におけるファンタジー(特に少年漫画)というのは、時代や地域の概念がほぼ無いに等しく、服装やデザインの統一感もない。そういう時代・地域の整合性を取るというよりも、キャラの個性を重視し、読者の目を引くデザインを優先している点に大きな特徴があると僕は感じている。

 

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んでもって、ここから先は僕の好みの話。

 

僕はファンタジー自体は好きなんだけど、王道の中世ヨーロッパ風のファンタジーは苦手だったりする。まあ、簡単に言ってしまえば、「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」「テイルズシリーズ」のような王道デザインはあまりピンとこない。

(唯一、鳥山明先生のモンスターのデザインは好きである)

 

たぶん、僕がそう思うのは、これらの王道ファンタジー作品の影響があまりにも強すぎて、その派生系の作品が大量に生み出されたからだろうと思う。

例えば、槍玉に挙げてしまって申し訳ないが、なろう系の異世界ファンタジーは全部同じようなものに感じる。女王様が着用しているドレスとか、勇者が装備している鎧や盾とか、ダンジョンに出てくる異形のモンスターとか、微妙な違いこそあれど、「ドラクエの亜種」と感じるようなデザインで溢れかえっている(というか、意図してドラクエのパロディを作っている)。

 

つまり、こういうドラクエの派生系の作品群は、ファンタジーと言いつつ、実はデザインはほぼ決まっており、僕からすると、現代を舞台にしているのと何ら変わりがない。デザインの可変性が無い(既にデザインの方向性が決まっている)という点で同じだからだ。

 

僕がファンタジーが好きな理由は、見たことのない服装とか、見たことのない生き物とか、見たことのない風景とか、見たことのない建物とか、そういう「見たことのない斬新なモノ」と出会えるからであり、人間の想像力を爆発させられるジャンルだからである。別に、中世ヨーロッパ風の王道ファンタジー世界感が好きなわけではない。

 

だからこそ、宮崎駿先生の描くファンタジー世界が好きだし、「風ノ旅ビト」のような独自の世界感に心が踊るし、少年漫画の描くゴチャゴチャとした多国籍感のあるファンタジーが面白いと思うんだろう。僕が好きなのは「独自性のあるデザイン」なのだ。

 

今となっては、この自分の「好き」の感覚を言語化できるようになったけども、昔はこれが上手く説明できず、前の担当者に「ファンタジーが描きたい」と言ったときに、「じゃあ、異世界ファンタジーを描きましょう」と言われ、「そうじゃないんだよな〜」とモヤモヤしながらも、何も反論出来なかったことを思い出す。

 

何度も言うが、僕が好きなのは「デザインの可変性の無い王道ファンタジー」ではない。「自由にデザインを変えられる独自のハイファンタジー」なのだ。

 

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いったん話を「服装のデザイン」に戻そう。

 

僕が考えるに、たぶん漫画家やキャラクターデザイナーの多くは、現実に存在する衣装を参考にしつつも、実は、既存のファンタジー作品から着想を得て、そこに何らかの新しい要素を付加することにより、新しい衣装デザインを作っている・・・と僕は考えている。

先ほどから言及しているドラクエの亜種作品がまさにそうであり、ベースとしてドラクエのデザインがありつつも、そこに何かしら新しいデザイン要素を足すことで、別のドラクエの派生デザインを作っているのだ。

 

少年漫画も同じで、例えばファンタジー系の能力バトル漫画だと、ベースに鳥山明先生の「ドラゴンボール」とか、冨樫先生の「幽遊白書」「HUNTER×HUNTER」があって、そこに独自の概念や新しいデザイン要素を付加することで、別の新しいファンタジー作品を作っているといえる。

尾田先生の「ONE PIECE」や岸本先生の「NARUTO」はドラゴンボールの派生形であるし、芥見先生の「呪術廻戦」はHUNTER×HUNTERの派生形と言って差し支えないだろう。そうやって、少年漫画のキャラデザインは受け継がれてきたわけだ。

 

つまり、全く何も無いゼロの状態からスタートしているわけではなく、和月先生の「るろうに剣心」や吾峠先生の「鬼滅の刃」のように、特定の時代に依拠した作品でない限り、必ずしも時代・地域を意識しながらデザインを作っているというわけでもない。既に完成されている世界感・デザインに依拠しながら、ちょっとずつその姿形にアレンジを加えてきた・・・というわけだ。

 

もし、そうだとすると、僕が本当に参考にすべきなのは、既存のファンタジー作品なんだろうと思う。

 

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たぶん、僕は、どの時代の、どの国の服装をベースにするか・・・という時代考証の部分でやたらと悩んでいるんだけど、少年漫画を描く限り、その悩みはナンセンスというか、極論を言ってしまえば、「お前の描きたいデザインで描け」っていう話で終わる。大航海時代なのに、スーツを着ている奴が居たって良いのだ。それが漫画である。というか、その方が面白い。

 

要するに、時代考証とか、そんなことよりも、読者が「カッコいい」「カワイイ」と感じるデザインにすることの方が100億倍大事なのだ。文化人類学者とか歴史学者が、ドラクエのデザインを見て、「こんなの中世ヨーロッパではない」などと批判したところで、そんな批判は何の意味も持たない。だって架空の世界なんだもの。みんながそのデザインを見て、「良い」「好き」と思ったから広まったのだ。

 

だから、キャラの服装のデザインの根源にあるのは、「良い」とか「好き」という純粋な感情である。それ以外は要らない。その感情をずーっと探求し続けることでしか、理想のキャラクターには到達できない。

 

僕はそう思う。

 

作品の出発点と読者が食べたいもの

さてさて、今日もブログを書いていこう。

 

ぶっちゃけ全くと言っていいほど練習が捗っておらず、次の作品のイメージも湧いてこないので、その鬱屈とした感情を吐き出すためにブログを利用させてもらっている。

 

なんていうか、自分が描きたい絵とか、テーマとか、ジャンルとか、ちゃんと決まっているようで、あんまり決まってない状況であり、今のところ、「僕が描きたいものはコレ!」っていう確たる方向性も特に無い。

このブログでも過去に何度か触れたように、僕には、異常なまでにこだわってしまう癖(へき)もなければ、描きたいモチーフも決まっていないし、「僕らしさ」という目立った個性もない。

 

だから、描くたびにコロコロと絵柄も変わってしまうし、それまではシンプルなデフォルメ絵が好きだったのに、昨年の8月頃は「線を簡素化してシンプルに描くのが良くない」と思っていたらしい。

 

実際、僕はその後の模写練習を経て、裏那先生のような細かい描き込みがなされた絵柄を目指してみたものの、今回でその絵柄の限界を感じてしまい、再びキャラを記号化した絵に戻そうと思ったりしている。絵柄については、あっちに行ったり、こっちに行ったり、文字通りコロコロとスタンスが変化し続けている。

 

まだまだ自分は下手なので、絵柄とか個性とか言ってられるレベルじゃないし、描くたびに絵柄が変わるのは、ジャンルや作品の雰囲気を意識的に変えていることが根底にあるので、新しい作品やジャンルに挑戦するという意味でいえば、絵柄が変わってしまうこと自体が悪いとは思っていない。

 

だけど、いつになったら、「これが俺の漫画だ!」と胸を張れるのだろうか。今回の作品にそれがあったかと言われると、満足している部分もあるものの、到底そこまでの水準には達していない。「まだまだ未熟だな・・・」と感じてしまっているのが本音だ。

僕が満足できるのは次なのか、その次なのか、はたまたその次なのか。一歩ずつ進んでいくしかないけど、なかなかガッチリと歯車が噛み合うことがない。クリエイティブとはかくも厳しい世界なんだなと思う。

 

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あるいは、僕の中でひとつだけ思っていることがあり、「コメディに振り切った作品」を描かなかったことが、絵柄不安定の原因ではないかと思ったりもしている。

 

と言うのも、今までの僕は、「こういう絵が描きたい」というイメージからスタートして、作品のストーリーを膨らませていくことが多く、そうすると、どうしても「シリアスで真面目な物語」になりがちだった。僕は漫画よりも映画の方が摂取量が多かったので、映画みたいなカッコいいカメラアングルで描くことを考えてしまうし、内容としても映画みたいに起承転結がしっかりとしたストーリーを真面目に考えてしまうのだ。

 

そうすると、漫画に求められている「コミカルさ」がどんどん無くなっていき、映画のようなリアリティを必要とする作品にどんどん偏っていく。もし仮に、僕にそのリアリティを表現するだけの画力があったならば、ちゃんと作品として成立していたかもしれないが、それだけの画力が僕には無かったので、上手く表現することができず、ずーっとミスマッチが生じていた・・・ということなのかもしれない。

 

要するに、「こういう絵が描きたい」とか、「こういうカメラアングルにしたい」とか、そういった僕の美意識を起点にするのではなく、最初から「コメディを描く」とジャンルを決めて、それに合った絵を模索する方が実は良いのかもしれない。

今回の作品では、意識的に「コミカルな場面」を描こうと気を付けていたんだけど、結局、最終的には「真面目な物語」に収束していったので、次回作については、「最初から最後までコメディを貫く」と心に決めて描いてみようと思っている。

(シリアスな作風からコメディ漫画に転向した遠藤達哉先生も、「シリアス禁止」と自分に言い聞かせながら描かれているらしい)

 

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あと、もうひとつ、僕には信念というかプライドみたいなものがあって、「他人と作風が被りたくない」という愚かな執着心がある。だから、意識的に変わったものを描こうとしており、これが作品を複雑なものにして、読む人の感情移入を妨げている元凶なのかもしれない。

 

心配しなくても、自分の作品は自分にしか描けないし、他人と同じ作品になることはない。だから、「他人と違うものを描く」と強く意識する必要なんて、本当はどこにもない。個性なんて勝手に出てくるからだ。

 

また、読者が求めているものは「ちょっと違うもの」であり、「見たことも聞いたこともないような全く新しいもの」を必ずしも求めているわけではない。

例えば、お店に食べに行って、どこの国の料理か分からない謎のシチューが出てきたら、客としても困惑するだけである。それがめちゃくちゃ美味ければ問題ないが、たいていは「微妙な味」なので、「欲しいのはこれじゃない」と思われて終わりである。

 

多くの読者が求めているのは「カレー」とか「焼き肉」とか「お寿司」とかであり、今まで食べてきたカレーとは少し違うカレーが食べたいだけなのだ。ちょっと変わった具材が入ってるとか、半分カレーで半分ハヤシライスとかね。そういうのを見て、「おっ、新しいメニューじゃん♫」と喜ぶわけだ。間違っても、どこの国の料理か分からない謎のシチューを食べたいわけではない。この点を勘違いしてはならない。

 

だから、次に描く作品は、明確に「この作品を意識しました」という元ネタが必要だし、読む人からしても、「この人は◯◯先生のような作品が描きたいんだな」とか「△△先生と同じジャンルを描いてるんだな」と分かるものにしなければならない。ある意味で、そういう部分での我を捨てる必要はある。

 

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以上を一言でまとめると、「我を捨ててコメディを描く」・・・である。それ以外は余計なことを考えない。

 

デジタルでモノクロ漫画を描くときに気をつけたいこと。

こないだマンションの駐車場に停めていたバイクに乗ろうとしたら、蜂みたいな見た目の蚊が急に寄ってきて、思わずその場に尻餅をついてしまった。その時に、手のひらをズルズルに擦り剥いてしまい、めっちゃ痛い。あの蚊が憎いぜ・・・。

 

調べてみたら、たぶん「ガガンボ」か「ユスリカ」だと思われる。こんな禍々しい見た目をしていて、毒針を刺すわけでもなければ、人の血を吸うこともないらしい。いや、なんでやねん。刺せよ。そして俺の感情を返せ。

buna.info

 

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まあ、そんな虫のことはどうでも良い。

今日は、「グレスケ漫画(カラー漫画も含む)」か「モノクロ漫画」か、どっちの漫画を主軸にしていくべきなのか・・・って話をしながら、今後の方向性を自分語りしていきたい。

 

僕は、デジタルで描くモノクロ2階調の漫画が超ムズいと感じており、「どう頑張っても、自分のイメージ通りの線やトーンにはならない」という結論に達している。特に、紙に印刷することを想定した解像度600dpiのモノクロ漫画は、そもそもパソコンのモニターで等倍のピクセル表示をすることができず、どうしても液タブで描いている時との印象の違いが発生してしまう。

また、モノクロ設定にすると、アンチエイリアスがオフになり、線がギザギザになってしまうので、ここらへんの気持ち悪さも言葉では言い尽くし難いものがある。普段、カラーイラストを描いている人が、商業用のモノクロ漫画を描いたときに、「キモチワルッ!」って思うのは、こういうところからきている。

 

これは完全にデジタル特有の話であり、たとえば、アナログで描いた原稿をデータとして取り込む場合、元のアナログ原稿には当然ながら中間色(インクのムラ)が存在している。そのため、アンチエイリアスをオフにして、完全に白と黒の2色だけで表現すること自体が非現実的だし、本来紙に印刷するものは、ちゃんと紙に描くべきなのだ。デジタルで描いたモノクロ原稿と、紙で描いたモノクロ原稿が同じ印象になるはずがない。

 

なので、本音を言うなら、僕はweb用のグレスケ漫画(またはカラー漫画)が描きたい。デジタルのモノクロ漫画がほんとに嫌だ・・・。

 

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まあそんな不満を言いつつ、とりあえず、次回作も解像度600dpiのモノクロ漫画を描く予定でいるけど、僕の中で以下の4つのルールを決めている。

 

  1. キャンバスの表示倍率を縮小または拡大し過ぎないように注意し、なるべく表示倍率を印刷サイズ(等倍)にして描く。
  2. 線やベタのコントラストがハッキリしている絵を目指す。
  3. なるべくトーン(中間色)を使わない。
  4. ベタやトーンの削りはほぼやらない。

 

ひとつずつ理由を説明する。

(なお、ここで書いていることは完全に僕の好みの問題なので、これ以外のやり方が間違っているとか、そういうことではない)

 

まず、表示倍率に関しては、「拡大し過ぎると、細かいところが気になって作画が進まない」とか、「印刷されないような細かい描き込みをしてしまうのを避ける」とか、そういう理由により、表示倍率を拡大し過ぎないように注意する風潮があるけども、僕の場合は逆に縮小しすぎてしまう傾向にあり、拡大して見たときに線が雑になってることが多かった。今回の作品も然り。

グレスケやカラー原稿だと、縮小して描いても、別に印象の違いは生じないし、アンチエイリアスがかかるので、自然な感じに仕上がるんだけど、残念ながら、モノクロ原稿はアンチエイリアスがかからずに、しっかりと線の境界線が見えてしまうので、そういうちょっとした雑な線がめちゃくちゃ目立ってしまう。デジタルで紙印刷を前提としたモノクロ原稿を描く場合、印刷サイズで描くのが唯一正しい表示倍率になるので、この倍率で見たときに線がちゃんと綺麗に引けているか・・・という基準で描き進めていく必要があると感じている。

 

次に、線やベタの話なんだけど、このブログでも再三にわたって説明してきたとおり、デジタルでは自分が思っているよりも線が細く書き出されてしまう傾向にあるため、しっかりとした線とベタで、ハッキリとした印象の絵を目指すべきだと僕は考えている。

僕はこの意識が弱く、「しげペン改」のようなアナログ感のあるカスレた線で細かく描き込んでいく描き方をしていたため、実際に書き出したときにそういう細い線が潰れてしまい、絵の印象がボンヤリしてしまっていた。それを防ぐためにも、とにかく「太めの線でしっかりとした線を描く」という意識を持ちたい。この意識が一番重要と言っても過言ではない。

 

また、トーンについては、個人的に「極力使うべきではない」という結論に達している。なんでかと言うと、線と同じように実際に書き出した時に細く(薄く)感じてしまうという問題もあるんだけど、中間色としてベタベタと画面にトーンを貼ってしまうと、どんよりと暗い雰囲気になってしまって、逆効果になってしまうことが多いからだ。所詮、トーンは黒色の点でしかないことを忘れてはならない。

それだけじゃなく、トーン素材の中には、アンチエイリアスがかかったカラーハーフトーンと呼ばれるものがあったり、トーン素材を回転させたときに、網点の形が潰れてしまうものがあって、これまた実際に書き出したときに印象が変わってしまったり、最悪の場合はモアレを起こすことがある。トーンはこういう細かい調整が本当に難しいので、極力使わないようにするのが一番良い。あくまでも大事なのは白と黒のコントラストなのだ。

 

最後に、モノクロ漫画でよくある「削り」についても、デジタルではやらない方が良いと僕は思っている。これも印象の違いの話になるんだけど、削りブラシをどういうサイズに設定するかによって、削り方にも違いが生じてしまうし、自分が思い描いているような綺麗な削りになっていないこともたくさんある(今回も書き出してみたら、「アレ?」と思うことがちょくちょくあった)。

これについては、ちゃんと綺麗に削れるブラシを選定し、それしか使わないようにするとか、あるいは、パキッとした絵柄を目指すのであれば、中間色やグラデーションを無理に表現せず、敢えて削らないという選択肢もアリだと思っている。キャラの造形を記号化するなら、むしろ削っていない絵の方が良かったりする。

 

・・・こんな感じだろうか。

 

僕個人としては、「デジタルのモノクロ漫画」と「リアリティを追求する描き方」の相性がそんなに良くないと思っていて、細かい線を描き込んだり、トーンを削ったりしながら、中間的な色合いを表現していくと、どうしても印象の違いが出てしまうと感じている。極端なことを言うと、普通のグラデーショントーンですら、見え方に違和感を感じることもある。僕が下手なだけかもしれんけど。というか、そうだけど。

 

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こういう方針で次のモノクロ漫画を描いてみて、しっくりとした感覚があるとか、自分の中で改良できる見通しが立ってるとか、あるいは、ちゃんと第三者の評価が伴うのであれば、モノクロ漫画を継続していこうと思うんだけど、そうではなく、やっぱりモノクロ漫画が上手く描けないと感じてしまったり、それ以上の改良方法も分からないのであれば、もういっそのことグレスケ漫画に移行しようかなと考えている。

 

モノクロ漫画を描くたびに、うまく描けなかったり、印象の違いが出てしまうことに本当にウンザリしてて、せっかく時間をかけて何度もリテイクを重ねながら描いたのに、表示倍率とかトーンのモアレとか、絵の本質ではない部分で印象が変わってしまうのがめちゃくちゃ嫌だ。この印象のギャップをどうにかしてくれ。

 

こうやって失敗を重ねながら、少しずつ改良していくしかないんだろうね。難しいなぁ。

 

自分の描きたい絵から逆算して作風を考えてみる。

前回の記事の続き。

 

 

前回の情報を整理したうえで、僕が描きたい絵をまとめると、

  • デザイン:キャラの造形がある程度記号化されていること。
  • 描き方:パキッとした線で描かれたコントラストを感じられる絵であること。
  • 雰囲気:「スタイリッシュでカッコいい」「心がホッコリする(優しい・柔らかい)」

 

・・・こういう感じかなぁと思う。

 

つまり、この描き方に合っているジャンルとか、読者のニーズに合う作風を逆算して考えていけば、自分に合ったものが見つかるかもしれない・・・ということになる。

 

ハイファンタジーが難しい理由

僕は、今回の作品において、いわゆる「ハイファンタジー」というジャンルに挑戦した。

 

漫画業界では、よく「ハイファンタジーは売れ線ではないのでやめた方が良い」と言われることが多いんだけど、その理由として、「作者が自分で考えたオリジナル設定が出てくるため、初見の読者には分かりづらい」と言われたりする。もちろん、それも理由としてはあると思うけど、個人的には「世界感や雰囲気を楽しんでください」という作風になりがちなのが理由として大きいと考えている。

 

例えば、ハルタで連載中の樫木先生の「ハクメイとミコチ」は、身長9センチメートルの小人のお話であり、森の中で暮らす小人たちの日常風景が1話完結型で描かれていく。

 

僕は、樫木先生の絵柄が好きだし、緻密に描かれた背景や雰囲気も大好きなんだけど、何か凄いことが起こるかというと決してそうではなく、エンタメ性という点でどうしても目劣りすると感じる。あくまでも、樫木先生独自の世界感を楽しむ漫画なのだ。

実際、Amazonのレビューを見ていると、「ストーリーが面白いとかそういう作品ではない」という意見も見受けられ、「小人たちの日常生活が見ていてホッコリする(食事シーンが良い、背景が見ていて飽きない・・・等々)」という感想が多い。

 

つまり、樫木先生ぐらい世界感を作り込めるのであれば、「こんな世界に住んでみたい」と読者にも共感してもらえるんだけど、そうじゃなければ途端に退屈になってしまう。多くの漫画において、「バトル」「コメディ」「恋愛」「エロ」といったエンタメ要素を付け加えようとするのはそれが理由である。ほとんどの読者は「世界感」を面白いと思わないし、読者を惹き付ける「世界感」を描ける人もそんなに多くはない。

 

だったら、大衆ウケする「バトル」「コメディ」「恋愛」「エロ」を描いた方が良いし、敢えて分かりづらいファンタジーを選ぶ必要もない・・・ということになる。これがハイファンタジーが流行らない理由である。

要するに、ハイファンタジーは読者を満足させられるだけの「世界感」を持っている人にしか描けないし、そうじゃない人は描かない方が良い。まあ、だからこそ、ハイファンタジーを作り続けてきた宮崎駿先生は天才と言われるわけだけども(誰にも真似出来ないので)。

 

ショッピングモール or 田舎の個人店

じゃあ、僕はどうだったのかと言うと、樫木先生のように世界感を見せるというより、ある程度エンタメ性のあるものを描こうという方針だったので、絵柄や演出も樫木先生とは真逆の少年漫画チックなものだった。

 

しかし、あとから冷静に考えてみれば、これがチグハグだったような気がしていて、ハイファンタジーを求めている人(世界感を求めている人)からすると、エンタメ感が強すぎるし、逆に、少年漫画のようなエンタメ感を求めている人からすると、バトルやコメディ要素が弱すぎるし、どちらの読者層からもウケないという中途半端な作品になってしまった感じがする。

 

何と言うか、「彩り豊かなヘルシーサラダ」と「にんにくマシマシの二郎系ラーメン」を同時に出されたような感じかもしれない。どっちかに絞れよ、と。なので、「ホッコリとした作品」にしたかったのであれば、少年漫画っぽい演出は無しにして、樫木先生のように優しい絵を貫くべきだったし、「爽快感・エンタメ感のある作品」にしたかったのであれば、別にハイファンタジーにこだわる理由もなく、もっとコメディやアクションシーンを多く描いても良かった。

 

つまり、今の僕に求められているのは、中途半端な状態を解消して、どっちを描くのかを決めろ・・・ということになると思う。

これは言い換えるのであれば、有名店が軒を連ねる大型ショッピングモールに大衆店を出店する(大手少年誌のようなエンタメ作品を目指す)のか、それとも、田舎でひっそりとマイナーな個人店を開く(世界感を重視したニッチな作風を目指す)のか・・・という分岐点ともいえる。

 

そもそも何故中途半端な作品になったのか

ここで、実はさっきの「描きたい絵」の話に戻る。僕はどうしても作品の中に何らかの「カッコよさ」を入れたいと思ってしまって、それゆえに、SFやファンタジーにこだわってきた。

最初に描いた作品は能力バトル漫画だったし、その次に描いたのはハードボイルドなSF漫画だった。3作目もバトル要素のあるファンタジー漫画であり、この3作目については、新人賞で入賞させてもらった作品である(掲載無し)。なので、全く見込みが無いわけでもないと自分では思っている。

 

しかし、その後は全くネームが通らない日々が続いた。

 

そんなある日のこと。とある作品のネームを描いて担当編集に送ったら、結構ボロクソに批判されて、企画自体もボツになったのだが、唯一ギャグシーンだけは面白かったらしく、「ギャグはめちゃくちゃ面白かったので、コメディ漫画を描いてみてはどうか」と提案されたのだ。しかし、その時の僕は全くピンと来ておらず、結局その話も有耶無耶になって、その編集者と連絡を取ることもなくなった。

 

それからは、さらに迷走の日々が続く。何を描けばいいのか全く分からず、ちょっと不思議な雰囲気のショート漫画を描いてみたり、よく分からないラブコメ(未完)を描いてみたり、相変わらず難解なSF漫画(ネーム途中で挫折)を描いてみたり、マフィアを主人公にした家族ドラマ(原稿途中で挫折)を描いてみたり、謎のボーイミーツガール漫画(原稿途中で挫折)を描いてみたりしたが、どれもこれも散々な結果だった。

(唯一、ラブコメだけは持ち込み先の編集者から「絵柄が魅力的」と言われたが、ポジ要素は本当にそれしかなく、賞に応募しようと思っていた作品は妻から「面白くない」と言われるなど、ボロボロだった)

 

その後、長きにわたって、自分の作品を見つめ直す期間へと突入し、やっと「描きたい」という気持ちになったのは、昨年の11月頃の話である。その時も、やっぱり描きたかったのはファンタジーであり、最初はめちゃくちゃ鬱展開・グロ要素のあるものを描こうとしていたが、その話はいったん白紙にして、もっと柔らかくて優しい話にしたら上手くまとまった・・・という感じになる。

 

つまり、何と言うか、めっちゃグロい少年バトル漫画を描こうとしたら、あんまり上手くいかなかったので、ハイファンタジーっぽい要素とかコメディ要素を取り入れたら、なんとか作品としてまとまりましたーって感じなのだ。これが中途半端な作品になってしまったそもそもの理由である。

 

僕が描くべきジャンルとは

ここまで色々と失敗を重ねてきて、ようやくかつての担当編集の言葉が身に沁みるようになってきた。「コメディを描くべきだ」と。

 

まず、純粋なSF漫画やバトル漫画を描くのは、僕には合っていないと感じる。上手くいった試しがない。そもそも、そのジャンルはめちゃくちゃ高い画力が求められるが、僕は画力タイプではないし、もっと言うなら「大真面目な話」を作るのが下手なんだと思う。バトルに限らず、恋愛とかもそうなんだけど、大真面目な話をしたいのであれば、それなりにリアリティを追求する必要があるんだけど、僕の目指している絵柄的にどうしても説得力が足りなくなってしまう。毎回チグハグ感を感じるのはそれも原因だと思う。

 

また、ハイファンタジーについては、今回の作品において、こういう方向性もアリだなと思える部分もあったけど、樫木先生のように確たる世界感があるわけでもなければ、それを描き続ける覚悟もないし、面白いネタやアイデアがあるわけでもない。現時点では、「よし!俺はハイファンタジー作家になるぞ!」とは思えない。

(というか、そういう素質のある人は最初からハイファンタジーを描いてると思う)

 

そして、今回コメディ要素を付け加えたことによって、圧倒的に「描きやすい」と感じた。僕はこれまで、「カッコいいポーズ」とか「あっと驚くアクション」とかで作品を面白くしようと考えており、僕の作品のエンタメ性はそこにあると思っていたけど、たぶん絵柄的に言ってもコメディの方が合っている。

というか、キャラを記号化して描きたいと言ってる時点でコメディ向けだし、僕が好きな絵柄の作家さんを冷静に見てみると、一部の作家さんを除いて、大体コメディである(真面目なストーリーを描いてないという意味ではないよ)。

 

目標にすべき作品

まあ、ということは、僕が目指したいのは「コメディ要素がありつつ、最終的に心がホッコリとする作品(バトル漫画以外)」であり、作品の中になんらかの「カッコいい」と思える要素があるもの・・・ということだろうか。

 

そうなると、少年漫画だと遠藤先生の「スパイファミリー」とか、空知先生の「銀魂」が内容としては近いと思われる。

 

コメディを描くからといって、うすた先生の作品や宮崎先生の「僕とロボコ」のようなところまでギャグに振り切ってしまうと、それは「ギャグ漫画」になってしまう。そうではなく、あくまでも基本路線は「コメディ」と言えるものでなければならない。

また、バトル要素もあくまでオマケでなければならず、例えば、堀越先生のヒロアカとか、松本先生の怪獣8号までいってしまうと、それは「バトル漫画」になってしまうのでそれも違う。

 

また、描き方としては、武井宏之先生の「シャーマンキング」の初期の頃とか、羽海野チカ先生とか、岩原裕二先生とか、ああいうパキッとした描き方が好きで、頭身バランスとか、絵の雰囲気的に言えば、副島成記先生や新井すみこ先生の絵が理想だったりする。上手くイメージがまとまってないけど。

 

むすびに

「描きたい絵」から逆算していくと、考え方が整理されて、少し頭がスッキリしたような気がする。完全に描きたいものが固まったわけではないんだけど、少なくとも次回作に向けてのおおよその方向性みたいなものは分かった。

 

僕は、大手少年誌の売れ線みたいなものに染まるのが嫌で、意識的にそこを避けてきたけど、最初から「自分は大衆ウケしない」と決めつけて、ニッチな作風に走るのではなく、大衆的なエンタメ作品にひとまず挑戦しようと決意した。それを描いてから、また今後の方向性を考えればいい。とにかく今は可能性を狭めるべきじゃない。

 

僕の好きな絵柄を挙げながら自分の好みを整理していく。

僕には、4つの絵の好みがあって、

 

  1. 線やベタの使い方がパキッとしている印象の絵(コントラストがハッキリしている絵)
  2. キャラや背景の造形が記号化されているデザイン性を感じる絵
  3. スタイリッシュでカッコいいor可愛い絵
  4. どこかノスタルジックに感じる優しい絵

 

ずばりこの4つのどれかに当てはまっている絵を見ると、思春期真っ盛りの麗しき乙女のように、頬を赤らめながら「好き!」と告白してしまいそうになる。

 

というわけで、本日は僕が好きな絵柄の作家さんを順不同(敬称略)でズラーッと並べながら、その作家さんの「好きポイント」を僕なりに整理しつつ、今後の絵柄の参考にしたいと思う。

 

全く興味ないと思いますがどうぞ。

 

中村佑介(イラストレーター)

以前も言ったけど、イラストレーターの中村佑介さんは、学生の頃から大好きであり、初画集「Blue」は発売日に購入したし、先日も書店にて氏の画集第2弾「NOW」も購入させて頂いた。

 

アジカンのCDジャケットの絵を描いていることで有名であり、僕の大好きな「四畳半神話大系」のキャラデザも担当されている。おそらくサブカルが好きな人で知らない人は居ないだろう。

 

上記条件でいうと、中村さんの絵柄は、僕の好みの「2」「3」「4」に当てはまっている。女の子のイラストについては「アンニュイな可愛さ」があると思っていて、表情が大人しく、ポーズや構図も平面的な絵であるにもかかわらず、なぜかグイグイと引き込まれる不思議な魅力で溢れている。

例えば、可愛い女の子を描こうと思ったら、女の子に可愛いポーズをさせるとか、フェミニンな表情をさせるとか、そういう風に描くのが普通なのに、中村さんの描くキャラクターの可愛さはそうじゃなくて、「内側から自然と湧き出てくる魅力」を絵に落とし込んでいる点に凄さがある。こんなの普通は描けない。

 

そういう点でも、間違いなく天才イラストレーターだなぁと思う。真似したくても真似できない絵柄の筆頭じゃないだろうか。最近はよく中村さんの絵を見ていることが多い。

 

副島成記(グラフィックデザイナー・イラストレーター)

副島成記さんは、アトラスでゲームキャラクターのデザインを担当している方であり、「ペルソナ」のキャラデザで一躍有名になった。ペルソナ3〜5のキャラデザを見たら、副島さんのことを知らない人でも、思わず「あーこのキャラを描いている人ね」と合点がいくと思う。

 

副島さんの絵柄に関してはとにかく「スタイリッシュでカッコいい」という一言に尽きる。僕はなんとなく貞本義行さんに近しいものを感じていて、目と目の間隔をちゃんと空けて描くところが大好き(最近の作家さんは目と目の間隔がやたらと狭い人が多い)。あと、めっちゃスタイルが良くてカッコいい。こういうところは女子ウケしそうな絵だなーと感じる。

 

副島さんの絵についても、真似出来そうで真似出来ない筆頭格であり、漫画・イラスト界隈で、あまりこういう絵柄で描いている人を見かけない。まさに唯一無二という感じがする。

 

 

popman3580(イラストレーター)

副島さんの絵のストロングポイントが「カッコよさ」だとしたら、popman3580さんの絵は「可愛さ」で群を抜いている。たぶん、リアル頭身のキャラデザに限って言うなら、日本で一番可愛い女の子が描ける人だと思う。

 

中村佑介さんともまた違った視点を持っていて、popman3580さんは、とにかく「女の子が可愛く見えるポーズ、表情、アングル」を研究しまくっているのがヒシヒシと伝わってくる。画集「CITRUS」はパラパラとめくっているだけで本当に楽しい。

 

僕は、popman3580さんの絵柄も「ありそうでない」という感じがしていて、漫画界隈で流行っている美少女キャラのデザインともまた違ったものを感じる。あと、鉛筆っぽいブラシで柔らかい雰囲気に仕上げているのも好み。この方も唯一無二だと思う。

 

 

マテウシュ・ウルバノヴィチ(水彩画アーティスト)

マテウシュ・ウルバノヴィチさんは、ポーランド出身の背景画を専門とするアーティストであり、新海誠監督の作品にも背景美術として携わった経験を持たれている。マテウシュさんの画集「東京店構え」「東京夜行」などでその存在を知ってから大好きになった。

 

マテウシュさんは、宮崎駿監督の作品が好きらしく、同じく宮崎先生を勝手に師と仰ぐ僕も同じ匂いを感じている。僕の好みで言えば「4」に該当する絵柄である。

宮崎作品の影響により、日本が好きになったのか、理由はよく分からないが、東京の風景をモチーフにすることが多く、同じく東京の風景が大好きな新海誠監督からお声が掛かったのも決して偶然ではないだろう(ちなみに、奥様は日本人であり、漫画を描かれている)。

 

僕はキャラクターを描くのと並んで、同じぐらい背景を描くのも好きであり、現代都市を舞台にして描くのであれば、マテウシュさんのような優しいタッチで描きたいと思っている。また、マテウシュさんのYoutubeチャンネルのメイキング動画が作業用BGMとして本当にちょうどいい。

 

 

道満晴明(漫画家)

道満先生の絵については、Pinterestでたまたま見かけたのをきっかけに好きになった。とにかく独特なデフォルメ絵柄であり、漫画作品自体もブラックユーモアというか、不思議な世界感で満ち溢れていて、まさに「好きな人は好き」という感じの作家さんである(悪く言うなら「読む人を選ぶ」とも言える)。

 

ちなみに、僕は道満先生の作品の中では「ニッケルオデオン」が圧倒的に好き。

 

道満先生は、僕の好みで言うと「2」に該当する絵柄で、昔のアニメっぽいデザインの可愛いキャラクターなんだけど、かなり独特に記号化されており、他の作家さんには無いデザイン性を感じる。ちなみに、同人活動を長らくされていたこともあって、作品の随所にエロ要素が垣間見える。

 

僕は、道満先生の絵柄を真似しようと思った時期もあったが、何と言うか、同人誌をやっていた人じゃないと身に付かないデザイン感覚のようなものがあると感じていて、自分にはこういう可愛いエロ路線のデフォルメ絵柄は無理だなーと思ってしまった。ある意味で、自分には無いものを持っている人への憧れ的な感じかもしれない。

 

ちなみに、道満先生は年齢非公開なんだけど、「53歳のG=ヒコロウ先生と親交がある」「1993年の時点で同人活動をされていた(Wikipedia情報)」という2点から、おそらく50歳前後じゃないかと勝手に想像している。

 

岩原裕二(漫画家)

岩原裕二先生は、1996年にアフタヌーン四季賞を受賞してデビューを果たした漫画家であり、「DARKER THAN BLACK -漆黒の花-」「Dimension W」などの本格的なSFバトル漫画を主に描かれている。最近はLINEマンガに活動の場を移し、「クレバテス-魔獣の王と赤子と屍の勇者-」というファンタジー漫画を連載されている。

 

岩原裕二先生は、僕の好みで言えば「1」に該当する絵柄であり、ほとんどトーンを使わずに、太い線とベタを使って、コントラストがハッキリとした絵を描く点に大きな特徴がある。僕が知る限り、カケアミなどのグラデーション表現もほとんどせずに、太い線だけで影を表現したりする。

キャラのデザインは「王道の少年漫画」という感じであり、岩原先生だけの特別な個性をあまり感じないものの、逆にデッサンの狂いもほとんどない非常に安定した画力を持たれていて、とにかく読みやすいという印象を受ける。僕はこういうコントラストがハッキリとしている絵が大好きで、たまたま岩原先生の作品を書店で見かけた時に、思わず心を奪われてしまった。最近は、また岩原先生の絵柄を勉強し直そうかなと考えている。

 

ちなみに、初投稿から掲載デビューまでに2年の歳月を要している点も、なんだか勇気づけられるというか、「僕も頑張らないと!」・・・と、自分を奮い立たせる材料になっている。

あと、岩原先生も年齢非公開となっているが、専門学校卒業後にハドソンに入社し、その後に漫画家デビューを果たされていることから、おそらく岩原先生も50歳前後だと推測している。

 

 

山本和音(漫画家)

山本和音先生は、2007年にジャンプ十二傑新人漫画賞を受賞してデビューを果たした漫画家であり、現在はハルタで「生き残った6人によると」を連載されている。山本先生のご経歴については、過去に詳しく書いたことがあるのでここでは割愛する。

 

山本先生の絵柄は、僕の好みで言うと「1」「2」に当てはまっており、岩原裕二先生と同じく、ハッキリとした線を描かれる点に特徴がある。Wikipedia情報によれば、ペン入れにミリペンを使われているらしい。

あまり細かい描き込みをせず、カケアミなどのグラデーション表現もほとんどしない。これも岩原先生と同じであるが、同氏の短編集に収録されている「雨は止んだか」という短編作品では、細かい描き込みがなされているので、山本先生がそういう作品を全く描かないわけではない(作風との兼ね合いだろう)。

 

岩原先生が少年漫画らしい「カッコよさ」を追求しているとすれば、山本先生はどちらかと言うと、「可愛い」「優しい」という要素を持っており、この雰囲気が山本先生独自の世界感を演出しているように感じる。このデザイン感覚もあまり他では見られないんじゃなかろうか。

 

ちなみに、連載中の「生き残った6人によると」は結構シリアスなゾンビサバイバル漫画であり、絵柄とのギャップが面白さを加速させているように思う。僕が大好きな作家さんの1人であり、これからも応援し続けたい。

 

 

久正人(漫画家)

久正人先生は、アフタヌーン四季賞を複数回受賞した後に、2003年に「グレイトフルデッド」で連載デビューを果たした漫画家である。僕の好みでいうと「1」「2」「3」に該当している。

 

久正人先生の絵柄は一言で言うなら、「白と黒のコントラスト」であり、描き込み量が少ない山本和音先生よりもさらに描き込みが少なく、ほんとに線とベタしかない超独特な絵柄である(アメコミから影響を受けているとのこと)。

キャラクターの造形は、怪獣・アメコミ・特撮が好きなだけあって、デザイン性に優れており、久正人先生の描く1枚絵は「カッコいい」と感じるものが多い。何と言うか、いつまでも少年の心を忘れていない人が描いた絵という感じがする。

 

大衆受けする作風ではないかもしれないが、僕はめちゃくちゃ好き。

 

 

羽海野チカ(漫画家)

羽海野チカ先生は、高校卒業後にサンリオに就職し、会社員をやりながら同人誌活動を継続され、2000年に「ハチミツとクローバー」で連載デビューを果たされた漫画家である。2007年から「3月のライオン」を連載され、現在も執筆中。ちなみに、羽海野先生の連載作品は、いずれもアニメ化されてヒットを記録している。

 

羽海野先生は、僕の好みでいうと「1」「2」に該当する絵柄であり、少年少女たちの瑞々しい感性を、優しくて可愛い絵柄できめ細やか(ときにコミカル)に表現していく点に特徴がある。デザイン的には、細かい描き込みでリアリティを追求するというよりは、ハッキリとした線で記号化して描くという画風であり、背景もデフォルメして描いていることが多い。

 

ちなみに、僕は羽海野先生の画面づくりが物凄くツボで、ワチャワチャしている感じがすごく好きだし、その一方でキャラが感情を爆発させているシーンでは、ちゃんと真面目に描いているところも作品の中にギャップがあって好きだ。

系統としては、先述の山本和音先生も近しいものがあるんだけど、山本先生はコメディ要素が薄めで、キャラの感情表現も映画みたいな演出をすることが多いんだけど、羽海野先生は、「これぞ漫画」という表現が多い気がする。

 

 

新井すみこ(漫画家)

新井先生は、ここで挙げている漫画家の中で、唯一SNSを中心に活動されている漫画家であり、「気になってる人が男じゃなかった」がバズりまくっている注目の作家である。

 

作品の内容自体は女性向けであり、百合が好きな女性をメインターゲットにした漫画なので、グッとくるポイントを理解しているわけではないんだけど、新井先生の絵柄は、パキッとした少年漫画っぽい部分があったりして、僕はめちゃくちゃ好きだ。好みで言うと「1」「3」に該当する。

純粋に画力が高いし、キャラの表情がコミカルで見ていて飽きない。1話4ページで構成されているので、顔漫画になることが多いにもかかわらず、キャラの心情がちゃんと伝わってくるのは画力が高いことの証拠である。

 

最近の読者を惹き付けるために必要なことが新井先生の絵には詰まっている気がしていて、とにかくよく見ている。

 

 

武井宏之(漫画家)

武井先生は、1994年に「ITAKOのANNA」で手塚賞を受賞し、1997年に「仏ゾーン」で連載デビューを果たしたガチのエリートである。1998年にはヒット作となる「シャーマンキング」の連載を開始するものの、人気低迷により2004年に連載打ち切りの憂き目に遭われている。

(その後紆余曲折を経て、講談社のマガポケでシャーマンキングの続編を連載中である)

 

僕の好みで言うと「2」「3」に該当する絵柄であり、キャラの造形・デザインに関しては、歴代のジャンプ作家の中で武井先生が一番好きだ。キャラを記号化・デフォルメすることに関しては、武井先生の絵柄が一番参考になると思っている。また、純粋に画力も高く、デビュー当時から既に上手い。天下のジャンプが武井先生を評価するのも頷ける。

ちなみに、連載開始当初の絵柄は、「THE・少年漫画」というデフォルメ絵柄であり、描き方もパキッとした線で描かれていた。現在のラフな絵柄も好きだが、この頃のハッキリとした絵柄も僕は好きだ(僕の好みでいえば「1」に該当する)。

 

キャラの描き方としては、現在の作家の中にも武井先生のような描き方の人もいるが、デザインという部分に関しては唯一無二であり、他の作家さんには無いものを持ってらっしゃると思う。

 

 

裏那圭(漫画家)

このブログでも再三にわたって「好き」と公言しているのが、現在少年マガジンで「ガチアクタ」を連載されている漫画家の裏那先生である。

 

これまでに挙げてきた漫画家の先生たちとは毛色が異なり、裏那先生の絵柄は、「超細かい描き込みでリアリティを追求するタイプ」といえる。また、キャラクターの造形・デザインが斬新であり、瞳の形、髪型、服装、アクセサリーの細部に至るまで、めちゃくちゃ凝っており、グラフィティデザインも超カッコいい。僕の好みでいえば、「2」「3」に該当する。

 

もともと、少年バトル漫画を描く人は、描き込みも多く、画力も高い傾向にあるが、裏那先生はその中でもトップクラスだと思う。ちなみに、ガチアクタの初期の頃は、わざとラフな描き方をされていて、僕はあの頃の描き方がめちゃ好きだった。最近は普通の綺麗な線になっていて、ちょっと残念(描きづらかったんだろうなー・・・)。

 

少年バトル漫画を描きたいなら、デザイン面で参考にしたいと思う作家さんの1人。

 

 

堀越耕平(漫画家)

少年ジャンプにて「僕のヒーローアカデミア」を連載されている説明不要の超人気漫画家。僕は、歴代のジャンプ作家陣の中でも画力はトップクラスだと思っている。僕の好みで言うと「2」または「3」に該当する。

 

堀越先生については、「これぞ王道の少年漫画」という絵柄であり、コミカルに描いたり、ド迫力のバトルシーンを描いたり、表現の幅が非常に広い。キャラの記号化も非常に上手いと感じる。

ただし、裏那先生のような奇抜さが無く、良い意味でも悪い意味でも「クセがない」という印象だが、裏を返せば、「王道のデザインを貫いた万人受けする絵柄」とも言える。だからこそこれだけのヒットに繋がっているんだろう。

 

 

まとめ

今回絵柄について自分の好みを整理したのは、「本当に僕が描きたい絵は何なのか」という部分をちゃんと確認するためであり、少しだけその部分が見えてきた気もするので、ちょっと言語化してみる。

 

*****

 

まず、ひとつ気付いた点があって、僕が好きな漫画家の中に、ジャンプやサンデーなどの大手少年雑誌での現役連載作家があまり居なかった。大手に限定するなら、堀越先生と裏那先生の2人しかおらず、過去に連載されていた武井先生を含めても3人しかいない。

ひとつ断っておくと、作品として好きなものはたくさんある。遠藤達哉先生の「スパイファミリー」も好きだし、末永・馬上先生の「あかね噺」も好きだし、藤本先生の「チェンソーマン」も好きだし、山田・アベ先生の「葬送のフリーレン」も好きだ。

 

ただし、それはストーリーが面白いとか、設定や世界感に惹かれるものがあるとか、そういう部分での「好き」であり、殊に絵柄に関して言うのであれば、あまり惹かれるものがない。何と言うか、現在の少年漫画の絵柄は「めちゃくちゃ画力は高いんだけど、デザイン面でのクセがあまりなく、大衆ウケする絵柄」という印象を抱いてしまう。

(・・・・ちなみに、僕の好みではないというだけで、タイザン5先生や藤本タツキ先生のように、キャラが記号化されていたり、独特な描き方をする先生がいるのは分かっている)

 

・・・そう。何と言うか、「上手い」という印象を抱いたとしても、「クセになる」という感覚があまりないのだ。

要するに、僕は「上手い」と感じる絵よりも、「クセになる」と感じる絵の方が好きであり、「描き方」「デザイン」「テーマ」「雰囲気」のどれか(あるいはその全て)にクセがある作家さんが好きなんだろうなーと分析した。

 

例えば、岩原裕二先生は、キャラの「デザイン」こそ普通だが、コントラストをハッキリ描くという「描き方」のクセがあるし、山本和音先生は、パキッとした線で記号化したキャラを描くという「デザイン」と「描き方」の両方にクセがある。そこに加えて、羽海野チカ先生は、ワチャワチャとした「雰囲気」にクセがあると言える。

逆に、裏那先生・武井先生は「描き方」こそ王道の少年漫画だが、キャラの造形が奇抜であり、「デザイン」にクセがある作家さんと言える。道満先生や久正人先生に至ってはクセしかない。

 

漫画家以外のイラストレーターやデザイナーについても同じである。マテウシュさんは、描いているモチーフこそ普通だが、外国人の目から見た日本の風景という「テーマ」が面白く、そのテーマに水彩画特有の優しく柔らかい「雰囲気」が合わさっている点に強烈なクセを感じる。

中村佑介さんは、キャラクターの造形や表情などの「描き方」「デザイン」に独特のクセがあり、それらが絶妙なバランスで組み合わさることにより、ノスタルジックというか、アンニュイというか、不思議な「雰囲気」が演出されている。これも中村さんならではのクセである。

副島さんは「スタイリッシュなカッコよさ」、popman3580さんは「女の子の可愛らしさ」という、他のクリエイターにはない唯一無二の「デザイン」を感じる。

 

*****

 

こういう風に、あくまでも僕の好みの話になってしまうが、僕の好きな作家さんには何かしらのクセがある。だけど、大手少年雑誌の連載作家の多くは、そのどれもが普通に感じてしまう。「クセのある独特な画風を目指そう」というより、「クセのない上手い画風を目指そう」という方向性のように感じる。

(人によっては、僕と見ているポイントが違っていて、「クセがある」と感じる絵柄かもしれないけどね。結局は個人の好みなので)

 

だから、今の大手少年雑誌の連載作品の中で、「この人の絵柄良いね!参考にしよう!」と思えるものが少ないのはそういう点に理由がある。

昨日の記事において、「全員が150キロの豪速球を目指すようになった世界」という話をしたけど、たぶん無関係ではないと思う。

 

ちょっと記事が長くなってきたので、一旦今日はここまで。