箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

澤井先生が「ボボボーボ・ボーボボ」から作風を大きく変更されたことについて僕が思うこと。

かつて少年ジャンプで「ボボボーボ・ボーボボ」を連載されていた澤井先生について、僕なりの視点で少し語りたくなったので、ちょっとブログを書いてみる。

(なお、ここで書いていることは、僕個人の想像の話も含まれており、予想の範疇を出るものではないことを予め注記しておく)

 

「ボボボーボ・ボーボボ」は、2001年に少年ジャンプで連載を開始した伝説的なギャグ漫画である。とにかく破天荒な作品であり、唐突に繰り広げられるハイセンスなギャグ、理不尽な暴力、個性的なキャラたちのぶっ飛んだリアクションが強烈な印象を与え、熱狂的なファンを多数生み出した。

同作はその後のギャグ漫画に多大な影響を与えた歴史的名作と位置づけられており、連載開始当時、まだ少年だった僕は、「ボボボーボ・ボーボボ」というリズミカルなタイトルを聞いただけで爆笑したのを覚えている。それぐらい、この作品のインパクトはすごかった。

 

ちなみに、「だが◯◯、テメーはダメだ」の元ネタはボーボボである。そういうネットスラングを生み出してしまうぐらい、ボーボボの影響力は凄かったのだ。

 

しかし、ボボボーボ・ボーボボの連載終了後、2008年から連載を開始したヤンキーギャグ漫画「チャゲチャ」は、たった8週で連載打ち切りとなってしまう。これは2024年現在においても、週刊少年ジャンプ史上最短である。

 

このあたりから澤井先生の作風や絵柄に迷いが見られるようになる。

 

2011年からボーボボのスピンオフ作品「ふわり!どんぱっち(途中から「ほんのり!どんぱっち」にタイトル変更)」の連載を開始されるが、ボーボボの頃と絵柄が大幅に変わっており、ジャンルも「理不尽ギャグ漫画」から「ほのぼの日常ギャグ」へと変更されていた。

 

この作品は2015年に連載を終了し、その後は、2018年に「ミンチ食堂」、2021年に「フロントライン・スピリッツ」という読み切り作品を発表したのを最後に、澤井先生名義での作品は発表されていない。

(ちなみに、「フロントライン・スピリッツ」は、ボーボボ連載開始から20周年を記念して描かれた特別読み切りである)

shonenjumpplus.com

 

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僕が思うに、澤井先生は画力タイプの作家ではなく、少なくとも初期の頃は、「デッサンを無視して、勢いで突っ切ってしまうタイプ」の作家だった。こういう作家さんは、ギャグ漫画との相性が良く、熱狂的なファンを生み出す点に特徴がある。たぶん、ギャグ漫画家はほとんど全員がそうだと思う。

 

ただ、僕には少し気になることがあって、澤井先生のWikipediaには次のように記述されている。

幼い頃から絵が下手であり、小学生の頃からマンガのイラストを描いて見せあっても周りと比べて下手で、高学年になって周りに触発されてオリジナルのものを描き始めても雑で下手な絵であったと回想している。活動当初も「絵が汚い」という自覚の元で漫画を描いていた。ギャグ漫画を描こうと思ったのも「絵が汚くても、ストーリーがめちゃめちゃでも、とにかく笑いを取ればよい」と思ったためである。

 

・・・仮に、このWikipedia情報が正しいとしよう。

 

もしそうだとすると、澤井先生はご自身の絵にコンプレックスを抱えており、そのコンプレックスを克服したいと考えていたのではないかと僕は思っている。と言うのも、澤井先生自身が、自分の絵を「雑で下手」と述懐されており、ギャグ漫画を描き始めた理由も「絵が汚くても面白ければ成立する」という点に求められているからだ。

つまり、「自分はギャグ漫画家になりたいから、面白い作風を目指そう」と考えていたのではなく、「本当は上手い絵が描きたいんだけど、それが描けないから、今の自分の画力に合ったジャンルを描こう」と考え、戦略的にギャグ漫画を描かれたのではないかと僕は勝手に想像している。

 

結果として、この澤井先生の戦略はバチッと歯車が噛み合った。澤井先生の「ギャグセンスの高さ」と、「雑だけど勢いのある絵」が奇跡的に融合し、とんでもないギャグ漫画が生まれたのだ。

 

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だけど、これが澤井先生の本望だったのかと言われると、僕はそうだとは思えない。もし仮に、澤井先生が過激なギャグ漫画に活路を見出したのであれば、ずっとボーボボ路線でやっていこうと思うはずだからだ。

例えば、うすた京介先生は「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」がヒットした後も、同じ路線をずーっと継続し、「武士沢レシーブ」や「ピューと吹く!ジャガー」においても、マサルさんみたいな同キャラを描き続けている。もしも、澤井先生もうすた先生と同じタイプだったのであれば、姿形は違えど、ボーボボみたいなキャラを描き続けるはずである。

 

しかし、澤井先生はそうではなかった。ボーボボの次に描いた「チャゲチャ」では、同じようにギャグ漫画を描いているものの、キャラの見た目は普通のヤンキーにとどまっており、ボーボボ路線を継続しているとは思えない。また、「ふわり!どんぱっち」では、全体的に柔らかくて可愛い絵柄になっており、最新の読み切り作品「フロントライン・スピリッツ」でも、キャラクターは可愛く描かれている。たぶん、これが澤井先生が本当に描きたかった絵なんだろうと僕は思っている。

 

ただ、これらの作品はボーボボ並のインパクトを与えるには至らなかった。

 

純粋にビジネス目線だけで言うなら、「ボーボボがあれだけウケたのだから、そのままボーボボ路線を継続すれば良いじゃないか」と思えるし、たぶんジャンプ編集部も澤井先生にそのように打診したと思う。言わずもがな、多くの読者もそれを望んだはずである。

 

ただ、クリエイター目線で言うと、僕は澤井先生の気持ちが何となく分かる。そりゃ、絵を描いている限り、誰だって「上手い絵が描きたい」と思うに決まっている。澤井先生が尊敬する人物として挙げている島袋先生も、ギャグ漫画家でありながら、画力はめちゃくちゃ高い。こういう上手い絵に憧れないわけがない。澤井先生は、ボーボボの連載を続けながらも、心のどこかで「デッサンの崩れたギャグの絵柄ではなく、上手い絵が描きたい」と願っていたのではないだろうか。

 

そして、澤井先生は連載を続けながら、自身の画力の向上を実感し、途中から絵柄の変更を図った・・・というのが僕の想像だ。

 

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また、僕は、澤井先生の作風の変更について、違う観点からも別の複雑な感情を抱いている。その理由を頑張って言語化してみる。

 

自分の話で申し訳ないが、僕も小学生の頃にギャグ漫画を描いていて、その漫画はクラスメイトからも「面白い!」「早く続きを読ませて!」と好評だった。クラスメイトの中には、謎の漫画批評オタクみたいな奴もいて、「単純なバトル漫画に走るのではなく、日常系のギャグをノビノビと描いている点に親しみが持てる」との謎の講評を貰ったこともある。

あの頃の僕は、とにかくお笑いが大好きで、ダウンタウンのお笑い番組や吉本新喜劇などを見て、お笑いの間合いとか、ワードチョイスのセンスみたいなものを磨いていった。澤井先生と比べるのもおこがましいが、僕もギャグ漫画にある程度の適性があるタイプだと勝手に自負している。

 

だけど、じゃあ、今でも小学生の頃のようなギャグ漫画が描けるかというと、ギャグっぽいものは描けるかもしれないが、同じものは絶対に描けないと思う。あの頃と感性が違うし、お笑いに対する考え方もガラッと変わったからだ。特に、理不尽なイジリ・暴力のようなものに対しては、嫌悪感すら抱いている。

 

例えば、「ダウンタウンのごっつええ感じ」は、その当時こそゲラゲラと腹を抱えて見ていたが、コントの中で繰り広げられるセクハラや暴力について、今見るとかなりキツイものがある。また、「進ぬ!電波少年」の懸賞生活企画で一躍有名になった芸人・なすびさんについても、なすびさん自身の告発も相俟って、「虐待・人権侵害ではないか」と指摘されるようになり、現在は僕自身もそういう風に受け止めている。

 

さらに、最近、フジテレビの伝説的バラエティ番組「めちゃ×2イケてるッ!」で元レギュラーだった三中さんが、当時のことを述懐されており、「何も聞かされないまま岩手県の山奥にある『みちのくプロレス』の道場へと連行された」とか、「プロレス修行中のギャラはゼロだった」とか、「車の前に飛び出そうと思った」とか、「山を登っているときに倒れて、そのまま死のうと思った」とか、かなり衝撃的な証言が飛び出している。

news.yahoo.co.jp

 

その当時のめちゃイケでは、三中さんは「根性の無い奴」という烙印を押され、メンバーをクビにされており、それをリアタイで見ていた僕自身も、三中さんに対して良い印象を抱いていなかったが、こういう証言を聞くと、「人権侵害ではないか」「三中さんの名誉を傷付けるような恣意的な演出がなされていたのではないか」と感じている。

 

要するに、その当時の僕が「面白い」と思っていたものの裏側では、理不尽な暴力とかパワハラが横行していて、ちゃんと傷ついている人が居たのだ。まさに「人を傷つけて笑いを取る」という蛮行に走っていたのが当時のテレビだった。

 

漫画も似たような部分がある。

例えば、先ほども例に挙げたうすた先生の「ピューと吹く!ジャガー」では、ハマーさん(本名:浜渡浩満)というイジられキャラがいて、仲間内からのイジリが常態化している様子が作品を通してずーっと描かれている。これは、あたかも「イジめられる奴が悪い」という印象を世間に与え、特定の人を仲間外れにしたり、暴言を吐いたり、暴力を振るったりすることを助長する表現ではないかと今になっては感じる。うすた先生の作品の価値を毀損する趣旨ではないが、少なくとも、そういうイジメを肯定しているかのような誤解を招く表現が一部含まれており、そのような表現について、ジャンプはOKを出していたと僕は解釈している。

 

このような風潮に対して、澤井先生がどのように考えられていたのか、僕は想像するしか無いんだけど、他人に暴言を吐いたり、唐突に暴力を振るって笑いを取るという手法に嫌気が差してしまったのではないか・・・と思わなくもないのだ。

最新の読み切り「フロントライン・スピリッツ」においても、ボーボボの時ほど、ギャグにインパクトがないと感じてしまうのは、人に対して汚い暴言を吐いたり、唐突な暴力が描かれていないからではないか。その代わりに、異常な性癖(ドM、BL)とか自傷行為とか、別の方法でインパクトを与えようとしているように僕の目には映る。

 

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ここから先は、完全に想像だけで書く。

 

ボーボボを連載しているとき、澤井先生には、「本当はもっと上手い絵を描きたい」という願望があり、そういう作品を目指したいという欲もあった。しかし、ジャンプ編集部はボーボボの路線継続を促し、もっとインパクトのあるギャグを澤井先生に求めるようになっていった。もっとギャグを過激にしろ、と圧をかけたのだ。

 

しかし、澤井先生はその風潮にどんどん疲弊していった。人を傷付ける表現を描いてまで、笑いを取りたくない。そういう風に思うようになっていった。その結果、澤井先生の絵柄は、「勢いのある激しいもの」から「柔らかく優しいもの」へと変化していき、内容も「過激なギャグ」ではなく、「ほのぼのとした日常系のギャグ」へとシフトチェンジしていった。

 

たとえ世間が自分に求めているものがそれじゃないと分かっていても、澤井先生は「人を傷つけて笑いを取るギャグ漫画」を捨てたのだ。僕はそのように想像する。

 

これまたWikipedia情報になってしまうが、澤井先生は、ボーボボの大ファンという難病の少年を見舞い、直筆サインをプレゼントしたり、単行本を読み聞かせたり、2人で食事をするなどの時間を過ごされたという。また、ボーボボの連載終了後に、溜まっていた6年分のファンレター全てに返事を出したと記述されている。こんなに思いやりのある優しい方が、他人への暴言や暴力といった表現に敏感にならないはずがない。

 

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ただし、何度も言うが、それは僕の想像でしかない。本当の真意は澤井先生しか分からない。

 

だけど、分からないがゆえに、澤井先生の作風変更について色んな想像をしてしまうし、同じく漫画を描く身として複雑な気持ちになってしまう。果たして、「ギャグ」とか「笑い」って何だろう、と。

もちろん、全てのギャグ漫画において、他人を傷付ける表現をしているわけではないし、思わずホッコリとしてしまうコメディ漫画だってたくさんある。誰も傷つかない優しい笑いだってあるのだ。

 

また、作家さんの本当に描きたいものが世間のニーズとズレてしまったときに、果たしてどうやってその齟齬を埋めれば良いのだろうか。これはクリエイター全員が抱えている永遠の課題だと思う。

 

僕は、もし仮に「ギャグ」や「コメディ」を含んだ作品を描くなら、誰も傷つかない優しい世界を目指したい。そして、澤井先生の優しい世界感の作品をまた読めれば嬉しいし、そういう作品を読者の目を気にすることなく、澤井先生が心から楽しんで描ける日が来ることを切に願う。

 

ファンタジーを題材にした場合のキャラの服装デザインについて

ファンタジーを題材にしていると、おそらく一番悩むのはキャラの服装だと思う。

 

その一方で、現代を舞台にするのであれば、ぶっちゃけ、国や人種による服装の違いなんてほぼ無いし、いくらでも服装の資料は手に入るため、ほとんど悩むことはない。

ビジネスマンであればスーツを着ているし、セクシーな女性は胸元が開いたドレスを着ているし、子どもは半ズボンだ。どこの国・地域でも変わりがない。日本には中・高校生が着用する制服というやや特殊な衣装文化があるけど、いずれにせよ服装資料なんて簡単に手に入る。

 

つまり、作品の舞台として「現代」を選択すれば、服装のデザインで悩むことはほぼ無いと言い切ってもいい。

 

ところが、ファンタジー(現代ファンタジーを除く)を題材にしていると、いつの時代の、どこの国の衣装を参考にするかによって、デザインが全く異なる。戦国時代の日本なのか、それとも中世期のヨーロッパなのか、はたまたゴールドラッシュ期のアメリカなのか。民族衣装ひとつを取っても、山岳民族なのか、それとも温暖な気候のもとで暮らす農耕民族なのかによってもデザインは異なってくる。

さらに、ファンタジー衣装というのは、幕末期の日本の和装とか、よくあるドラゴンクエストの世界に出てくるヨーロッパっぽい衣装とか、人気のあるジャンルであれば、いくらでも服装資料は手に入るんだけども、そうではなく、例えば、森薫先生の「乙嫁語り」とか、宮崎駿先生の「風の谷のナウシカ」「シュナの旅」のように、マイナーな地域を選択すると、途端に服装で困ることになる。服装資料がほとんど無いからだ。

 

だから、漫画やアニメで採用されるファンタジー衣装のデザインは、時代や地域の概念に囚われずに、現代的な要素も多く取り入れて、読者の目を引く独自のデザインを志向する傾向にある。

 

例えば、尾田先生の「ONE PIECE」は、和装のキャラが出てきたり、現代的な洋服(スーツなど)のキャラが出てきたりと、時代や地域概念がかなりあやふやなファンタジーになっている。大航海時代と言うと、普通は16世紀頃の中世ヨーロッパを想像するんだけど、その時代・地域に限定してしまうと、キャラのデザインが画一化されてしまうため、時代や地域の概念をもっと拡張して、自由な作風を目指されたんだろうと想像する。その結果、キャラの服装デザインは非常にバリエーションに富んだものになっている。

 

裏那先生の「ガチアクタ」に至っては、いつの時代の、どこの国を参考にしたものなのか、元ネタすら分からない。主人公ルドや育て親であるレグトの服装は、奇抜な柄が入っていたりして、やや民族衣装っぽい感じなのだが、リヨウやエンジンは現代的というか、パンクな服装をしており、ザンカの服装は少しオリエンタルな印象を受ける。まあ、要するに、ONE PIECEと同じで、色んな時代・国の文化がごちゃ混ぜになっている。

 

こういう風に、漫画におけるファンタジー(特に少年漫画)というのは、時代や地域の概念がほぼ無いに等しく、服装やデザインの統一感もない。そういう時代・地域の整合性を取るというよりも、キャラの個性を重視し、読者の目を引くデザインを優先している点に大きな特徴があると僕は感じている。

 

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んでもって、ここから先は僕の好みの話。

 

僕はファンタジー自体は好きなんだけど、王道の中世ヨーロッパ風のファンタジーは苦手だったりする。まあ、簡単に言ってしまえば、「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」「テイルズシリーズ」のような王道デザインはあまりピンとこない。

(唯一、鳥山明先生のモンスターのデザインは好きである)

 

たぶん、僕がそう思うのは、これらの王道ファンタジー作品の影響があまりにも強すぎて、その派生系の作品が大量に生み出されたからだろうと思う。

例えば、槍玉に挙げてしまって申し訳ないが、なろう系の異世界ファンタジーは全部同じようなものに感じる。女王様が着用しているドレスとか、勇者が装備している鎧や盾とか、ダンジョンに出てくる異形のモンスターとか、微妙な違いこそあれど、「ドラクエの亜種」と感じるようなデザインで溢れかえっている(というか、意図してドラクエのパロディを作っている)。

 

つまり、こういうドラクエの派生系の作品群は、ファンタジーと言いつつ、実はデザインはほぼ決まっており、僕からすると、現代を舞台にしているのと何ら変わりがない。デザインの可変性が無い(既にデザインの方向性が決まっている)という点で同じだからだ。

 

僕がファンタジーが好きな理由は、見たことのない服装とか、見たことのない生き物とか、見たことのない風景とか、見たことのない建物とか、そういう「見たことのない斬新なモノ」と出会えるからであり、人間の想像力を爆発させられるジャンルだからである。別に、中世ヨーロッパ風の王道ファンタジー世界感が好きなわけではない。

 

だからこそ、宮崎駿先生の描くファンタジー世界が好きだし、「風ノ旅ビト」のような独自の世界感に心が踊るし、少年漫画の描くゴチャゴチャとした多国籍感のあるファンタジーが面白いと思うんだろう。僕が好きなのは「独自性のあるデザイン」なのだ。

 

今となっては、この自分の「好き」の感覚を言語化できるようになったけども、昔はこれが上手く説明できず、前の担当者に「ファンタジーが描きたい」と言ったときに、「じゃあ、異世界ファンタジーを描きましょう」と言われ、「そうじゃないんだよな〜」とモヤモヤしながらも、何も反論出来なかったことを思い出す。

 

何度も言うが、僕が好きなのは「デザインの可変性の無い王道ファンタジー」ではない。「自由にデザインを変えられる独自のハイファンタジー」なのだ。

 

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いったん話を「服装のデザイン」に戻そう。

 

僕が考えるに、たぶん漫画家やキャラクターデザイナーの多くは、現実に存在する衣装を参考にしつつも、実は、既存のファンタジー作品から着想を得て、そこに何らかの新しい要素を付加することにより、新しい衣装デザインを作っている・・・と僕は考えている。

先ほどから言及しているドラクエの亜種作品がまさにそうであり、ベースとしてドラクエのデザインがありつつも、そこに何かしら新しいデザイン要素を足すことで、別のドラクエの派生デザインを作っているのだ。

 

少年漫画も同じで、例えばファンタジー系の能力バトル漫画だと、ベースに鳥山明先生の「ドラゴンボール」とか、冨樫先生の「幽遊白書」「HUNTER×HUNTER」があって、そこに独自の概念や新しいデザイン要素を付加することで、別の新しいファンタジー作品を作っているといえる。

尾田先生の「ONE PIECE」や岸本先生の「NARUTO」はドラゴンボールの派生形であるし、芥見先生の「呪術廻戦」はHUNTER×HUNTERの派生形と言って差し支えないだろう。そうやって、少年漫画のキャラデザインは受け継がれてきたわけだ。

 

つまり、全く何も無いゼロの状態からスタートしているわけではなく、和月先生の「るろうに剣心」や吾峠先生の「鬼滅の刃」のように、特定の時代に依拠した作品でない限り、必ずしも時代・地域を意識しながらデザインを作っているというわけでもない。既に完成されている世界感・デザインに依拠しながら、ちょっとずつその姿形にアレンジを加えてきた・・・というわけだ。

 

もし、そうだとすると、僕が本当に参考にすべきなのは、既存のファンタジー作品なんだろうと思う。

 

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たぶん、僕は、どの時代の、どの国の服装をベースにするか・・・という時代考証の部分でやたらと悩んでいるんだけど、少年漫画を描く限り、その悩みはナンセンスというか、極論を言ってしまえば、「お前の描きたいデザインで描け」っていう話で終わる。大航海時代なのに、スーツを着ている奴が居たって良いのだ。それが漫画である。というか、その方が面白い。

 

要するに、時代考証とか、そんなことよりも、読者が「カッコいい」「カワイイ」と感じるデザインにすることの方が100億倍大事なのだ。文化人類学者とか歴史学者が、ドラクエのデザインを見て、「こんなの中世ヨーロッパではない」などと批判したところで、そんな批判は何の意味も持たない。だって架空の世界なんだもの。みんながそのデザインを見て、「良い」「好き」と思ったから広まったのだ。

 

だから、キャラの服装のデザインの根源にあるのは、「良い」とか「好き」という純粋な感情である。それ以外は要らない。その感情をずーっと探求し続けることでしか、理想のキャラクターには到達できない。

 

僕はそう思う。

 

作品の出発点と読者が食べたいもの

さてさて、今日もブログを書いていこう。

 

ぶっちゃけ全くと言っていいほど練習が捗っておらず、次の作品のイメージも湧いてこないので、その鬱屈とした感情を吐き出すためにブログを利用させてもらっている。

 

なんていうか、自分が描きたい絵とか、テーマとか、ジャンルとか、ちゃんと決まっているようで、あんまり決まってない状況であり、今のところ、「僕が描きたいものはコレ!」っていう確たる方向性も特に無い。

このブログでも過去に何度か触れたように、僕には、異常なまでにこだわってしまう癖(へき)もなければ、描きたいモチーフも決まっていないし、「僕らしさ」という目立った個性もない。

 

だから、描くたびにコロコロと絵柄も変わってしまうし、それまではシンプルなデフォルメ絵が好きだったのに、昨年の8月頃は「線を簡素化してシンプルに描くのが良くない」と思っていたらしい。

 

実際、僕はその後の模写練習を経て、裏那先生のような細かい描き込みがなされた絵柄を目指してみたものの、今回でその絵柄の限界を感じてしまい、再びキャラを記号化した絵に戻そうと思ったりしている。絵柄については、あっちに行ったり、こっちに行ったり、文字通りコロコロとスタンスが変化し続けている。

 

まだまだ自分は下手なので、絵柄とか個性とか言ってられるレベルじゃないし、描くたびに絵柄が変わるのは、ジャンルや作品の雰囲気を意識的に変えていることが根底にあるので、新しい作品やジャンルに挑戦するという意味でいえば、絵柄が変わってしまうこと自体が悪いとは思っていない。

 

だけど、いつになったら、「これが俺の漫画だ!」と胸を張れるのだろうか。今回の作品にそれがあったかと言われると、満足している部分もあるものの、到底そこまでの水準には達していない。「まだまだ未熟だな・・・」と感じてしまっているのが本音だ。

僕が満足できるのは次なのか、その次なのか、はたまたその次なのか。一歩ずつ進んでいくしかないけど、なかなかガッチリと歯車が噛み合うことがない。クリエイティブとはかくも厳しい世界なんだなと思う。

 

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あるいは、僕の中でひとつだけ思っていることがあり、「コメディに振り切った作品」を描かなかったことが、絵柄不安定の原因ではないかと思ったりもしている。

 

と言うのも、今までの僕は、「こういう絵が描きたい」というイメージからスタートして、作品のストーリーを膨らませていくことが多く、そうすると、どうしても「シリアスで真面目な物語」になりがちだった。僕は漫画よりも映画の方が摂取量が多かったので、映画みたいなカッコいいカメラアングルで描くことを考えてしまうし、内容としても映画みたいに起承転結がしっかりとしたストーリーを真面目に考えてしまうのだ。

 

そうすると、漫画に求められている「コミカルさ」がどんどん無くなっていき、映画のようなリアリティを必要とする作品にどんどん偏っていく。もし仮に、僕にそのリアリティを表現するだけの画力があったならば、ちゃんと作品として成立していたかもしれないが、それだけの画力が僕には無かったので、上手く表現することができず、ずーっとミスマッチが生じていた・・・ということなのかもしれない。

 

要するに、「こういう絵が描きたい」とか、「こういうカメラアングルにしたい」とか、そういった僕の美意識を起点にするのではなく、最初から「コメディを描く」とジャンルを決めて、それに合った絵を模索する方が実は良いのかもしれない。

今回の作品では、意識的に「コミカルな場面」を描こうと気を付けていたんだけど、結局、最終的には「真面目な物語」に収束していったので、次回作については、「最初から最後までコメディを貫く」と心に決めて描いてみようと思っている。

(シリアスな作風からコメディ漫画に転向した遠藤達哉先生も、「シリアス禁止」と自分に言い聞かせながら描かれているらしい)

 

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あと、もうひとつ、僕には信念というかプライドみたいなものがあって、「他人と作風が被りたくない」という愚かな執着心がある。だから、意識的に変わったものを描こうとしており、これが作品を複雑なものにして、読む人の感情移入を妨げている元凶なのかもしれない。

 

心配しなくても、自分の作品は自分にしか描けないし、他人と同じ作品になることはない。だから、「他人と違うものを描く」と強く意識する必要なんて、本当はどこにもない。個性なんて勝手に出てくるからだ。

 

また、読者が求めているものは「ちょっと違うもの」であり、「見たことも聞いたこともないような全く新しいもの」を必ずしも求めているわけではない。

例えば、お店に食べに行って、どこの国の料理か分からない謎のシチューが出てきたら、客としても困惑するだけである。それがめちゃくちゃ美味ければ問題ないが、たいていは「微妙な味」なので、「欲しいのはこれじゃない」と思われて終わりである。

 

多くの読者が求めているのは「カレー」とか「焼き肉」とか「お寿司」とかであり、今まで食べてきたカレーとは少し違うカレーが食べたいだけなのだ。ちょっと変わった具材が入ってるとか、半分カレーで半分ハヤシライスとかね。そういうのを見て、「おっ、新しいメニューじゃん♫」と喜ぶわけだ。間違っても、どこの国の料理か分からない謎のシチューを食べたいわけではない。この点を勘違いしてはならない。

 

だから、次に描く作品は、明確に「この作品を意識しました」という元ネタが必要だし、読む人からしても、「この人は◯◯先生のような作品が描きたいんだな」とか「△△先生と同じジャンルを描いてるんだな」と分かるものにしなければならない。ある意味で、そういう部分での我を捨てる必要はある。

 

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以上を一言でまとめると、「我を捨ててコメディを描く」・・・である。それ以外は余計なことを考えない。

 

デジタルでモノクロ漫画を描くときに気をつけたいこと。

こないだマンションの駐車場に停めていたバイクに乗ろうとしたら、蜂みたいな見た目の蚊が急に寄ってきて、思わずその場に尻餅をついてしまった。その時に、手のひらをズルズルに擦り剥いてしまい、めっちゃ痛い。あの蚊が憎いぜ・・・。

 

調べてみたら、たぶん「ガガンボ」か「ユスリカ」だと思われる。こんな禍々しい見た目をしていて、毒針を刺すわけでもなければ、人の血を吸うこともないらしい。いや、なんでやねん。刺せよ。そして俺の感情を返せ。

buna.info

 

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まあ、そんな虫のことはどうでも良い。

今日は、「グレスケ漫画(カラー漫画も含む)」か「モノクロ漫画」か、どっちの漫画を主軸にしていくべきなのか・・・って話をしながら、今後の方向性を自分語りしていきたい。

 

僕は、デジタルで描くモノクロ2階調の漫画が超ムズいと感じており、「どう頑張っても、自分のイメージ通りの線やトーンにはならない」という結論に達している。特に、紙に印刷することを想定した解像度600dpiのモノクロ漫画は、そもそもパソコンのモニターで等倍のピクセル表示をすることができず、どうしても液タブで描いている時との印象の違いが発生してしまう。

また、モノクロ設定にすると、アンチエイリアスがオフになり、線がギザギザになってしまうので、ここらへんの気持ち悪さも言葉では言い尽くし難いものがある。普段、カラーイラストを描いている人が、商業用のモノクロ漫画を描いたときに、「キモチワルッ!」って思うのは、こういうところからきている。

 

これは完全にデジタル特有の話であり、たとえば、アナログで描いた原稿をデータとして取り込む場合、元のアナログ原稿には当然ながら中間色(インクのムラ)が存在している。そのため、アンチエイリアスをオフにして、完全に白と黒の2色だけで表現すること自体が非現実的だし、本来紙に印刷するものは、ちゃんと紙に描くべきなのだ。デジタルで描いたモノクロ原稿と、紙で描いたモノクロ原稿が同じ印象になるはずがない。

 

なので、本音を言うなら、僕はweb用のグレスケ漫画(またはカラー漫画)が描きたい。デジタルのモノクロ漫画がほんとに嫌だ・・・。

 

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まあそんな不満を言いつつ、とりあえず、次回作も解像度600dpiのモノクロ漫画を描く予定でいるけど、僕の中で以下の4つのルールを決めている。

 

  1. キャンバスの表示倍率を縮小または拡大し過ぎないように注意し、なるべく表示倍率を印刷サイズ(等倍)にして描く。
  2. 線やベタのコントラストがハッキリしている絵を目指す。
  3. なるべくトーン(中間色)を使わない。
  4. ベタやトーンの削りはほぼやらない。

 

ひとつずつ理由を説明する。

(なお、ここで書いていることは完全に僕の好みの問題なので、これ以外のやり方が間違っているとか、そういうことではない)

 

まず、表示倍率に関しては、「拡大し過ぎると、細かいところが気になって作画が進まない」とか、「印刷されないような細かい描き込みをしてしまうのを避ける」とか、そういう理由により、表示倍率を拡大し過ぎないように注意する風潮があるけども、僕の場合は逆に縮小しすぎてしまう傾向にあり、拡大して見たときに線が雑になってることが多かった。今回の作品も然り。

グレスケやカラー原稿だと、縮小して描いても、別に印象の違いは生じないし、アンチエイリアスがかかるので、自然な感じに仕上がるんだけど、残念ながら、モノクロ原稿はアンチエイリアスがかからずに、しっかりと線の境界線が見えてしまうので、そういうちょっとした雑な線がめちゃくちゃ目立ってしまう。デジタルで紙印刷を前提としたモノクロ原稿を描く場合、印刷サイズで描くのが唯一正しい表示倍率になるので、この倍率で見たときに線がちゃんと綺麗に引けているか・・・という基準で描き進めていく必要があると感じている。

 

次に、線やベタの話なんだけど、このブログでも再三にわたって説明してきたとおり、デジタルでは自分が思っているよりも線が細く書き出されてしまう傾向にあるため、しっかりとした線とベタで、ハッキリとした印象の絵を目指すべきだと僕は考えている。

僕はこの意識が弱く、「しげペン改」のようなアナログ感のあるカスレた線で細かく描き込んでいく描き方をしていたため、実際に書き出したときにそういう細い線が潰れてしまい、絵の印象がボンヤリしてしまっていた。それを防ぐためにも、とにかく「太めの線でしっかりとした線を描く」という意識を持ちたい。この意識が一番重要と言っても過言ではない。

 

また、トーンについては、個人的に「極力使うべきではない」という結論に達している。なんでかと言うと、線と同じように実際に書き出した時に細く(薄く)感じてしまうという問題もあるんだけど、中間色としてベタベタと画面にトーンを貼ってしまうと、どんよりと暗い雰囲気になってしまって、逆効果になってしまうことが多いからだ。所詮、トーンは黒色の点でしかないことを忘れてはならない。

それだけじゃなく、トーン素材の中には、アンチエイリアスがかかったカラーハーフトーンと呼ばれるものがあったり、トーン素材を回転させたときに、網点の形が潰れてしまうものがあって、これまた実際に書き出したときに印象が変わってしまったり、最悪の場合はモアレを起こすことがある。トーンはこういう細かい調整が本当に難しいので、極力使わないようにするのが一番良い。あくまでも大事なのは白と黒のコントラストなのだ。

 

最後に、モノクロ漫画でよくある「削り」についても、デジタルではやらない方が良いと僕は思っている。これも印象の違いの話になるんだけど、削りブラシをどういうサイズに設定するかによって、削り方にも違いが生じてしまうし、自分が思い描いているような綺麗な削りになっていないこともたくさんある(今回も書き出してみたら、「アレ?」と思うことがちょくちょくあった)。

これについては、ちゃんと綺麗に削れるブラシを選定し、それしか使わないようにするとか、あるいは、パキッとした絵柄を目指すのであれば、中間色やグラデーションを無理に表現せず、敢えて削らないという選択肢もアリだと思っている。キャラの造形を記号化するなら、むしろ削っていない絵の方が良かったりする。

 

・・・こんな感じだろうか。

 

僕個人としては、「デジタルのモノクロ漫画」と「リアリティを追求する描き方」の相性がそんなに良くないと思っていて、細かい線を描き込んだり、トーンを削ったりしながら、中間的な色合いを表現していくと、どうしても印象の違いが出てしまうと感じている。極端なことを言うと、普通のグラデーショントーンですら、見え方に違和感を感じることもある。僕が下手なだけかもしれんけど。というか、そうだけど。

 

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こういう方針で次のモノクロ漫画を描いてみて、しっくりとした感覚があるとか、自分の中で改良できる見通しが立ってるとか、あるいは、ちゃんと第三者の評価が伴うのであれば、モノクロ漫画を継続していこうと思うんだけど、そうではなく、やっぱりモノクロ漫画が上手く描けないと感じてしまったり、それ以上の改良方法も分からないのであれば、もういっそのことグレスケ漫画に移行しようかなと考えている。

 

モノクロ漫画を描くたびに、うまく描けなかったり、印象の違いが出てしまうことに本当にウンザリしてて、せっかく時間をかけて何度もリテイクを重ねながら描いたのに、表示倍率とかトーンのモアレとか、絵の本質ではない部分で印象が変わってしまうのがめちゃくちゃ嫌だ。この印象のギャップをどうにかしてくれ。

 

こうやって失敗を重ねながら、少しずつ改良していくしかないんだろうね。難しいなぁ。

 

自分の描きたい絵から逆算して作風を考えてみる。

前回の記事の続き。

 

 

前回の情報を整理したうえで、僕が描きたい絵をまとめると、

  • デザイン:キャラの造形がある程度記号化されていること。
  • 描き方:パキッとした線で描かれたコントラストを感じられる絵であること。
  • 雰囲気:「スタイリッシュでカッコいい」「心がホッコリする(優しい・柔らかい)」

 

・・・こういう感じかなぁと思う。

 

つまり、この描き方に合っているジャンルとか、読者のニーズに合う作風を逆算して考えていけば、自分に合ったものが見つかるかもしれない・・・ということになる。

 

ハイファンタジーが難しい理由

僕は、今回の作品において、いわゆる「ハイファンタジー」というジャンルに挑戦した。

 

漫画業界では、よく「ハイファンタジーは売れ線ではないのでやめた方が良い」と言われることが多いんだけど、その理由として、「作者が自分で考えたオリジナル設定が出てくるため、初見の読者には分かりづらい」と言われたりする。もちろん、それも理由としてはあると思うけど、個人的には「世界感や雰囲気を楽しんでください」という作風になりがちなのが理由として大きいと考えている。

 

例えば、ハルタで連載中の樫木先生の「ハクメイとミコチ」は、身長9センチメートルの小人のお話であり、森の中で暮らす小人たちの日常風景が1話完結型で描かれていく。

 

僕は、樫木先生の絵柄が好きだし、緻密に描かれた背景や雰囲気も大好きなんだけど、何か凄いことが起こるかというと決してそうではなく、エンタメ性という点でどうしても目劣りすると感じる。あくまでも、樫木先生独自の世界感を楽しむ漫画なのだ。

実際、Amazonのレビューを見ていると、「ストーリーが面白いとかそういう作品ではない」という意見も見受けられ、「小人たちの日常生活が見ていてホッコリする(食事シーンが良い、背景が見ていて飽きない・・・等々)」という感想が多い。

 

つまり、樫木先生ぐらい世界感を作り込めるのであれば、「こんな世界に住んでみたい」と読者にも共感してもらえるんだけど、そうじゃなければ途端に退屈になってしまう。多くの漫画において、「バトル」「コメディ」「恋愛」「エロ」といったエンタメ要素を付け加えようとするのはそれが理由である。ほとんどの読者は「世界感」を面白いと思わないし、読者を惹き付ける「世界感」を描ける人もそんなに多くはない。

 

だったら、大衆ウケする「バトル」「コメディ」「恋愛」「エロ」を描いた方が良いし、敢えて分かりづらいファンタジーを選ぶ必要もない・・・ということになる。これがハイファンタジーが流行らない理由である。

要するに、ハイファンタジーは読者を満足させられるだけの「世界感」を持っている人にしか描けないし、そうじゃない人は描かない方が良い。まあ、だからこそ、ハイファンタジーを作り続けてきた宮崎駿先生は天才と言われるわけだけども(誰にも真似出来ないので)。

 

ショッピングモール or 田舎の個人店

じゃあ、僕はどうだったのかと言うと、樫木先生のように世界感を見せるというより、ある程度エンタメ性のあるものを描こうという方針だったので、絵柄や演出も樫木先生とは真逆の少年漫画チックなものだった。

 

しかし、あとから冷静に考えてみれば、これがチグハグだったような気がしていて、ハイファンタジーを求めている人(世界感を求めている人)からすると、エンタメ感が強すぎるし、逆に、少年漫画のようなエンタメ感を求めている人からすると、バトルやコメディ要素が弱すぎるし、どちらの読者層からもウケないという中途半端な作品になってしまった感じがする。

 

何と言うか、「彩り豊かなヘルシーサラダ」と「にんにくマシマシの二郎系ラーメン」を同時に出されたような感じかもしれない。どっちかに絞れよ、と。なので、「ホッコリとした作品」にしたかったのであれば、少年漫画っぽい演出は無しにして、樫木先生のように優しい絵を貫くべきだったし、「爽快感・エンタメ感のある作品」にしたかったのであれば、別にハイファンタジーにこだわる理由もなく、もっとコメディやアクションシーンを多く描いても良かった。

 

つまり、今の僕に求められているのは、中途半端な状態を解消して、どっちを描くのかを決めろ・・・ということになると思う。

これは言い換えるのであれば、有名店が軒を連ねる大型ショッピングモールに大衆店を出店する(大手少年誌のようなエンタメ作品を目指す)のか、それとも、田舎でひっそりとマイナーな個人店を開く(世界感を重視したニッチな作風を目指す)のか・・・という分岐点ともいえる。

 

そもそも何故中途半端な作品になったのか

ここで、実はさっきの「描きたい絵」の話に戻る。僕はどうしても作品の中に何らかの「カッコよさ」を入れたいと思ってしまって、それゆえに、SFやファンタジーにこだわってきた。

最初に描いた作品は能力バトル漫画だったし、その次に描いたのはハードボイルドなSF漫画だった。3作目もバトル要素のあるファンタジー漫画であり、この3作目については、新人賞で入賞させてもらった作品である(掲載無し)。なので、全く見込みが無いわけでもないと自分では思っている。

 

しかし、その後は全くネームが通らない日々が続いた。

 

そんなある日のこと。とある作品のネームを描いて担当編集に送ったら、結構ボロクソに批判されて、企画自体もボツになったのだが、唯一ギャグシーンだけは面白かったらしく、「ギャグはめちゃくちゃ面白かったので、コメディ漫画を描いてみてはどうか」と提案されたのだ。しかし、その時の僕は全くピンと来ておらず、結局その話も有耶無耶になって、その編集者と連絡を取ることもなくなった。

 

それからは、さらに迷走の日々が続く。何を描けばいいのか全く分からず、ちょっと不思議な雰囲気のショート漫画を描いてみたり、よく分からないラブコメ(未完)を描いてみたり、相変わらず難解なSF漫画(ネーム途中で挫折)を描いてみたり、マフィアを主人公にした家族ドラマ(原稿途中で挫折)を描いてみたり、謎のボーイミーツガール漫画(原稿途中で挫折)を描いてみたりしたが、どれもこれも散々な結果だった。

(唯一、ラブコメだけは持ち込み先の編集者から「絵柄が魅力的」と言われたが、ポジ要素は本当にそれしかなく、賞に応募しようと思っていた作品は妻から「面白くない」と言われるなど、ボロボロだった)

 

その後、長きにわたって、自分の作品を見つめ直す期間へと突入し、やっと「描きたい」という気持ちになったのは、昨年の11月頃の話である。その時も、やっぱり描きたかったのはファンタジーであり、最初はめちゃくちゃ鬱展開・グロ要素のあるものを描こうとしていたが、その話はいったん白紙にして、もっと柔らかくて優しい話にしたら上手くまとまった・・・という感じになる。

 

つまり、何と言うか、めっちゃグロい少年バトル漫画を描こうとしたら、あんまり上手くいかなかったので、ハイファンタジーっぽい要素とかコメディ要素を取り入れたら、なんとか作品としてまとまりましたーって感じなのだ。これが中途半端な作品になってしまったそもそもの理由である。

 

僕が描くべきジャンルとは

ここまで色々と失敗を重ねてきて、ようやくかつての担当編集の言葉が身に沁みるようになってきた。「コメディを描くべきだ」と。

 

まず、純粋なSF漫画やバトル漫画を描くのは、僕には合っていないと感じる。上手くいった試しがない。そもそも、そのジャンルはめちゃくちゃ高い画力が求められるが、僕は画力タイプではないし、もっと言うなら「大真面目な話」を作るのが下手なんだと思う。バトルに限らず、恋愛とかもそうなんだけど、大真面目な話をしたいのであれば、それなりにリアリティを追求する必要があるんだけど、僕の目指している絵柄的にどうしても説得力が足りなくなってしまう。毎回チグハグ感を感じるのはそれも原因だと思う。

 

また、ハイファンタジーについては、今回の作品において、こういう方向性もアリだなと思える部分もあったけど、樫木先生のように確たる世界感があるわけでもなければ、それを描き続ける覚悟もないし、面白いネタやアイデアがあるわけでもない。現時点では、「よし!俺はハイファンタジー作家になるぞ!」とは思えない。

(というか、そういう素質のある人は最初からハイファンタジーを描いてると思う)

 

そして、今回コメディ要素を付け加えたことによって、圧倒的に「描きやすい」と感じた。僕はこれまで、「カッコいいポーズ」とか「あっと驚くアクション」とかで作品を面白くしようと考えており、僕の作品のエンタメ性はそこにあると思っていたけど、たぶん絵柄的に言ってもコメディの方が合っている。

というか、キャラを記号化して描きたいと言ってる時点でコメディ向けだし、僕が好きな絵柄の作家さんを冷静に見てみると、一部の作家さんを除いて、大体コメディである(真面目なストーリーを描いてないという意味ではないよ)。

 

目標にすべき作品

まあ、ということは、僕が目指したいのは「コメディ要素がありつつ、最終的に心がホッコリとする作品(バトル漫画以外)」であり、作品の中になんらかの「カッコいい」と思える要素があるもの・・・ということだろうか。

 

そうなると、少年漫画だと遠藤先生の「スパイファミリー」とか、空知先生の「銀魂」が内容としては近いと思われる。

 

コメディを描くからといって、うすた先生の作品や宮崎先生の「僕とロボコ」のようなところまでギャグに振り切ってしまうと、それは「ギャグ漫画」になってしまう。そうではなく、あくまでも基本路線は「コメディ」と言えるものでなければならない。

また、バトル要素もあくまでオマケでなければならず、例えば、堀越先生のヒロアカとか、松本先生の怪獣8号までいってしまうと、それは「バトル漫画」になってしまうのでそれも違う。

 

また、描き方としては、武井宏之先生の「シャーマンキング」の初期の頃とか、羽海野チカ先生とか、岩原裕二先生とか、ああいうパキッとした描き方が好きで、頭身バランスとか、絵の雰囲気的に言えば、副島成記先生や新井すみこ先生の絵が理想だったりする。上手くイメージがまとまってないけど。

 

むすびに

「描きたい絵」から逆算していくと、考え方が整理されて、少し頭がスッキリしたような気がする。完全に描きたいものが固まったわけではないんだけど、少なくとも次回作に向けてのおおよその方向性みたいなものは分かった。

 

僕は、大手少年誌の売れ線みたいなものに染まるのが嫌で、意識的にそこを避けてきたけど、最初から「自分は大衆ウケしない」と決めつけて、ニッチな作風に走るのではなく、大衆的なエンタメ作品にひとまず挑戦しようと決意した。それを描いてから、また今後の方向性を考えればいい。とにかく今は可能性を狭めるべきじゃない。