箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

いつの日かまたこの散歩コースを歩きたい。

先々週の月曜日。喉の痛みで目が覚める。

その痛みは完全に風邪を引いたときの「それ」であり、微熱・せき・たんの症状がしばらく続いた。

 

僕は季節の変わり目になると決まって風邪を引き、しかも長引く。10月半ばに差し掛かった今頃になってようやく咳の症状が治まり、平常運転に戻ってくることができた。あー長かった。自然治癒力ばんざい。

 

***

 

そうやって体調を崩しているうちにも月日は流れ、あっという間に新居への引っ越しが目前に迫ってきた。あと1週間もすれば、今住んでいるアパートともお別れである。

 

住んでいたのはトータルで2年半ぐらい・・・・だろうか。

 

そんなに長く住んでいたわけではなく、基本的には未練もない。ただ、僕のお気に入りの川沿いの散歩コースがあって、その川沿いの道を散歩出来なくなることだけが唯一惜しまれる。

 

その散歩コースは住宅街からスタートし、歩いているうちに徐々に家々が少なくなって、最終的には田園風景になる。僕はこの景色の移り変わりが無性に好きで、最初はいくつか選択肢があった散歩コースも、気づけばそのコースだけを選ぶようになっていった。僕の心が向かった先はその道だけだった。

 

もちろん、引っ越した先にも僕が好きになる散歩コースはあると思うし、僕は嬉々としてその道を歩くと思うけども、このコースでしか得られない栄養素というのは確実にあって、今から数年後、はたまた数十年後に、今いる場所に戻ってきて、またこの散歩コースを歩くことになるだろうと思う。

 

先月、実家に帰省したときも、昔よく散歩していた道を数時間かけてせっせと歩いてみたところ、あの頃と同じ感情がぶわっと蘇ってきて、少し泣きそうな気持ちになった。僕はここでしか得られない栄養素があるんだと強く実感した。

 

風邪を引いて体調を崩したら、ゆっくり休んで、たまには昔の道を歩いてみる。

そうやって元気をもらって、平常運転に戻ったら、また次の新しいステージへと向かう。

 

僕の人生はずっとそれを繰り返しながら、ちょっとずつ進んでいくんだろうなと思う。

 

同質化社会と自分

日本人の暮らしや考え方は同質化している。

 

日本全国どこに行っても、コンビニに置いている商品は同じだし、飲食チェーン店で食べられるメニュー・価格も同じだ(一部の離島を除く)。

ニトリやIKEAで同じ家具を揃えて、ユニクロで似たような無個性の服を買い、無印良品で無難な生活雑貨を買う。インフルエンサーがオススメしているAmazon商品を注文し、インスタで話題になっているコスメやアクセサリーを「これなら皆と同じ」と安心して買う。

 

家だって同じ。飯田グループのようなローコスト建売住宅メーカーが、安価な建売を全国的に大量販売していて、都会(東京都心を除く)だろうが、田舎だろうが、大体同じぐらいの機能性の家に住めるようになっている。違うのは地価だけだ。

 

しかも、日本の場合は、憲法25条1項(生存権)によって、「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されており、どんなに生活に困窮しても、最終的には生活保護で救済されるようになっている。

そのため、貧困層の人たちが生活保護を受給しながら、スタバでMacBookを広げて、Youtube動画を編集することだってできる。たぶんパッと見ただけでは、「生活保護受給者」なのか、「年収1000万円超のエリート会社員」なのか、誰も見分けがつかないだろう。

 

誰が、どこに住んでいたって、だいたい同じぐらいのレベルの暮らしができる。

それが日本という国である。

(さすがに年収1億円超の富裕層の暮らしとかは別世界だけど・・・)

 

***

 

また、スマホ・SNSが国民全体に普及したことにより、知識レベルや考え方も同質化・平均化された。

 

昔は、知識特権階級に属する一部のエリートだけが特別な知識・ノウハウを享受することができたが、今は情報が民主化されており、日本全国どこにいても、全員がスマホを使ってほぼ同じ情報にアクセスすることができる。

学歴や年収もまったく関係なく、全員が同じプラットフォームを利用して、同じ政治・経済議論に参加できるし、同じノウハウを享受して、同じビジネスを展開することも可能だ。

 

Youtubeとか漫画もそう。

人気チャンネルや人気作品のやり方を真似すればいい。

 

インフルエンサーと呼ばれる人たちが、トレンドのノウハウをパッケージ化してばら撒き、多くの一般大衆が何の苦労もせずにそれを完コピする。

コンテンツ業界ではそういう「既存作品の大量コピー」が横行しており、消費者は何の疑問もなくそれを当たり前のように消費する。皆の感覚が同質化しているからだ。

 

当然、その裏には「同質化されている方が都合の良い人たち」がいて、国民の消費マインドや政治思想を巧みにコントロールしている。

 

これは陰謀論でも何でもなく、実際本当にそうであり、大企業(資本家)からすれば、消費者全員が似たような好みを持っている方が物・サービスを売りやすいし、政府・官僚からすれば、国民(有権者)全員が同じような思想を持っている方が選挙に当選しやすく、政策も通しやすい。その方が物事がすんなり進むのである。

 

また、逆の視点でいうと、日本国民の大半は、「同質化されている方が心地良い人たち」であり、他の人と同じレベルの生活を送れて、同じコンテンツを享受できたらそれで良いと考えている人たちで占められている。多くの人はそれ以上のことを望んでいない。

 

そうやって、「同質化されている方が都合の良い人たち」と「同質化されている方が心地良い人たち」の利害が一致し、こんな麗しき同質化社会が出来上がったわけだ。

 

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僕は、同質化社会の1から100まで全部悪いと言ってるわけではないし、同質化されたことによって恩恵を受けている部分もたくさんある・・・とは思っている(医療とか、住宅などはまさにそう)。

 

同質化社会の方が多くの人にとってラクなのは間違いない。

 

ただ、このまま同質化されていった先に何があるのかと考えたときに、本当に大切なものに気づかないまま、あるいは、視界に入ったとしても、その大切さを軽視して、「本当は手に取るべきだったそれ」をスルーしてしまう人生になるのではないかという恐怖がある。

 

たとえば、僕はデスクツアー動画をたまに見るのだけど、多くのYoutubeたちが紹介している似たようなガジェットのひとつに、「電動昇降デスク」という定番のアイテムがある。ボタンひとつでデスクを上げ下げ出来ますよーっていう例のアレである。

去年腰を痛めた際、僕はとくに深いことを考えずに、「COFO Desk Premium」という電動昇降デスクを購入し、約1年半ぐらい使用してきた。僕は、デスクガジェット界隈において、電動昇降デスクは同質化の象徴だと思っている。

 

 

結論からいえば、このデスク自体は別に悪い商品ではない。

皆が「良い」というだけのことはある。

 

ただ、自分の作業環境的に、必ずしもデスクを昇降させる必要性はなく、手元のタブレットと目の距離を確保して、ちゃんと背筋が伸びればそれで良いため、天板に傾斜がつけられる製図テーブルに買い替えることにした(もうすぐ引っ越すので、タイミング的にも丁度良かった)。

 

しかし、世間では誰も製図テーブルの良さを語らないし、使用レビューもほとんど無かったため、「本当にそれで良いのか?」と悩みに悩んだ。

僕の中で「電動昇降デスクは必要ない」という強い確信があったので、購入に踏み切ることが出来たものの、もしそういう判断材料がなければ、「皆と違う物」を買うことへの躊躇は消えず、そのまま電動昇降デスクを使い続けたと思う。

 

この経験を経て、僕も同質化社会の一部なんだなーと痛感した。

インフルエンサーに感化され、消費マインドをコントロールされながら、同質化された社会を生きている歯車なのだと。そんな風に感じる。

 

んで、おそらく、過去にも同じようにそうやって僕の前を横切っていった「大切なものたち」がたくさんあったんだろうなーと思う。自分は薄々それが大切だと感じつつも、「皆と違う」という理由で、手に取るのをやめてしまったものたちが。

 

何度も言うように、同質化社会が全部悪いと言ってるわけじゃない。でも、自分にとって本当に大切なものは、同質化された社会の中にあるとは限らない。むしろ無いことの方が多い。

 

だからこそ、僕はこれからの人生において、「自分は違う」と確認することの重要性とか、一歩踏み外す勇気とか、敢えて自分の生活を異質化することこそ、本当に大切なことなのではないかと思ったりもする。

 

SNSを見直す。

↓こういう記事を書いて、Xを本格的にやっていこうと決意したのは今から5ヶ月前のこと。

 

 

ただ、自分を取り巻く環境が色々と変わってしまい、まーったくXの更新なんて出来ていない。わはは。

 

・・・まあ、「環境が変わった」というのはほとんど言い訳であり、「しんどい」「気疲れする」「居心地が悪い」というのが正直なところかな・・・。投稿するたびに、「これで良いのかなぁ」と逡巡してしまい、結構早い段階で挫折してしまった。

 

その中でも、たぶん「居心地が悪い」というのが一番大きい理由のような気がしていて、僕は「これで良いのかなぁ」ではなく、「ここに居ても良いのかなぁ」と感じているんじゃないかと思った。

これは、HSPの気質を持った自分だからこそ分かる感覚というか、「自分と思想が合わなそうな存在」がたくさん同居している環境に身を置いたときに条件反射的に出てくる「拒絶反応」みたいなものであり、かつての学校環境での感情がまさにそうだったりする。

 

HSPは、そういう環境に身を置くと、周囲に無理に馴染もうとして、わざと明るいキャラを演じてみたり、周囲の意見に無理に同調したり、「ちゃんと環境に適応できている」ということをいちいち確認したがる。

そして、後になってから「自分はこれで良いのかなぁ」「ちゃんと立ち回れているかなぁ」と逡巡するのだ。

 

しかし、実際は、ずーっと孤独であり、自分の感情を押し殺して、メンタルを無意味に擦り減らしているだけなのだ。だから、本当の悩み方は「自分はここに居ても良いのかなぁ」が正解だった。Xをやっていると、それを痛感する。

 

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僕が思うに、「居心地が悪い」と感じた場所にとどまり続けられる人間なんてほとんどいない。

 

多くは、すぐにその場所から立ち去るか、あるいは、その場にとどまり続けた末に、メンタルを病んで退場する。そのどちらかだ。

Xやインスタでも、なんとか適応しようと頑張ってみたものの、最終的に「疲れました」といってアカウントを消してしまう人で溢れている。これは一種の「現代病」みたいなものだと僕は思っている。

 

学校も義務。SNSも義務。

 

皆がやってるから自分もやらなければならない・・・という義務感が、現代人を過度に疲弊させているとしか思えない。今に始まった話ではないけども。

 

じゃあ、自分にとって「居心地が良い場所」ってどこなのかと言うと、このブログとnoteだけは何だかんだ続いていて、ブログは11年、noteは3年ぐらい続いている。僕は活字メディアだけは居心地が良いらしい。

 

 

僕が思うに、Xが「色んな属性の人間がごった返している都会のショッピングモール」だとすれば、ブログやnoteは「同じような思想の人間が寄り集まった田舎の古民家カフェ」みたいなものだと思っている。

なので、仮に価値観が対立する人が居たとしても、自分と同じ共通言語を持っていることがほとんどであり、そこまで不快に感じない。

 

要するに、僕はこういう「クローズドコミュニティ」が大好きだ。

閉じていればいるほどいい。拡散なんてせんでいい。

 

ミニマリズム的な思想でいうなら、「身の丈に合った生活」というか、「背伸びをせずに済むナチュラルな暮らし」というか。活字メディアはそういうものを体現しているような気がする。

 

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一応、更新頻度は少ないながらも、noteは3年も続けることが出来た。

 

こういう「居心地が良い場所」で、コツコツ発信していくことしか、僕に出来ることはないんだろうなーと思う。この先もずっと。

 

漫画はスモールビジネスで良い。

最近、ジャンプの発行部数が100万部を切ってしまったらしく、この事実を聞いて、僕の中でますます確信を強めていることがある。

 

「漫画はスモールビジネスで良い」

 

・・・ここ最近、僕はずっとそう思っている。

 

もっと正確にいえば、「コンテンツプラットフォームが多様化した現代においては、全世代にリーチする方法が存在しないので、スモールビジネスをやる方が向いている」と表現した方が良いかもしれない。

 

たとえば、冒頭に述べたジャンプが現在どういう状況に陥っているかというと、端的にいえば、読者が高齢化の一途を辿っている。

「花さか天使テンテンくん」の作者の小栗先生によると、連載初掲載号である1997年11号時点での読者の平均年齢が「14.7歳」だったのに対して、2021年3月時点での平均年齢は「28歳」だという。

 

 

ちなみに、大手少年誌はどこも似たようなものであり、僕の経験からいうと、たぶん今の平均年齢はもっと上がっていて、「30歳前後」ではないかと思う。

 

つまり、今から2〜30年前(1990〜2000年代)にジャンプを熱心に読んでいた小中高生が、そのまま年齢を重ねて大人になり、その人たちが今も熱心にジャンプを読んでいると考えるのが自然である。新しいお客さん(=若い読者)は増えていないのだ。

もし、若い読者が増えているというのであれば、平均年齢の上昇はどこかで頭打ちになるか、あるいは、下がっていかないとおかしい。

 

実際、「若者のマンガ離れ」というトピックで書かれた下記の記事によると、この20年でジャンプを読む中高生は10分の1に減ったとされている。

(ちなみに、この記事の中で触れられている『世代別の漫画不読率』を見ると、世代が上がっていくにつれて、漫画を読まない人の割合は増えていくので、熱心にジャンプを読んでいる人たちもいずれは読まなくなると予想される)

 

president.jp

 

ただし、若者は、マンガそのものを読まなくなったのではなく、紙の雑誌が読まれなくなっただけで、無料で読めるスマホアプリに流れたのではないかと考える人もいる。

 

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もっとも、僕が問題視しているのはそこじゃない。

若者のマンガ離れが進んでいるのかどうかなんて、正直どっちでもいい。もっと重要な問題がある。

 

それはなにか。

 

仮に、現代の若者が、「週刊少年ジャンプ」ではなく、無料で読める「ジャンプ+」に流れたと仮定しよう。つまり、ちゃんと若者の間にも漫画カルチャーは残っていて、彼らの間にも流行りの漫画がある、と。

 

しかし、そうだったとしても、彼らの間で流行っている漫画が社会的なブームになることはないし、実際、そんな社会現象になるような漫画をひとつも聞いた(読んだ)ことがない。

 

なぜなら、世代間のトレンドやカルチャーはほぼ完全に断絶しているからだ。

 

おじさんが熱心に読んでいる「週刊少年ジャンプ」を中高生が読むこともないし、かと言って、中高生が熱心に見ている「TikTok」をおじさんが見ることもない。

おじさんが、女子中高生の間で流行っている韓流アイドルをまったく知らないのと同じように、今の女子中高生は山口達也チャンネルを知らないだろう(もちろんゼロではないだろうけど)。

 

ここが、ジャンプ黄金期と現代の一番大きな違いである。

世代ごとに触れているプラットフォームやコンテンツがまるっきり違うのだ。

 

はるか昔、「テレビ」という支配的なマスメディアが幅を利かせていた時代は、若者が新しいカルチャーやムーブメントを作り、それがテレビを通して、全世代に波及していった。

だから、ダウンタウンという新しいお笑いがブームを起こし、SMAPやモー娘。といった国民的アイドルも生まれた。親世代でも、若者の間で流行っているものを容易に知ることができたからだ。

 

しかし、今は違う。

「TikTokで大人気の◯◯ちゃん」と言われても、それが誰なのか分からない。

「Youtube登録者数▲▲万人の◯◯◯」と言われても、初めて聞いた名前だったりする。

 

10代の若者にしか分からない配信者。

30代の主婦にしか分からない韓流スター。

50代のおじさん会社員にしか分からないビジネス系Youtuber・・・等々。

 

それぞれの世代ごとに、それぞれの流行りがあって、それぞれの世代で消費されている。

エンタメとかファッションなども全部そう。それぞれで完結しており、その先がない。

 

だから、「若者が新しいムーブメントを作って、それが全世代に波及していく」というブームの法則はもうとっくに廃れたと考えた方が良い。

(少子化が進む現代では尚更そうである)

 

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僕は、この事実の方が重要だと考えている。

 

「100%不可能」と言ってるわけではないが、ジャンプのように、「若い作家に新しい作品を描いてもらい、それを若者の間で流行らせるだけでなく、全世代に波及させて新しいブームを作る(単行本やグッズを短期集中で売りまくる)」というビジネスモデルはかなり成立しづらくなっている・・・と言わざるを得ない。

 

もし流行ったとしても、「若者だけ」とか、「おじさん世代だけ」という限定的なブームになるだろう。漫画に限らず、どんな種類のコンテンツでもそれは同じである。

 

・・・でも、僕はそれで良いと思う。

 

むしろ、テレビ全盛期(≒ジャンプ黄金期)のように、「皆が同じコンテンツに触れて、皆が同じモノ・ヒトを好きになる」という状況の方が異様である。

 

生まれ育った環境も違うし、関わってきた人間や触れてきたカルチャー、学んできた知識だって全然違う。何だったら、言語も、肌の色も、宗教も違う。

そうやって、人それぞれ価値観や好みは異なっているはずなのに、まるで感情を操作されているかのように、なぜか同じものを崇拝する。テレビが「マインドコントロール装置」と揶揄されるのは、それが所以である。

 

だから、ジャンプが653万部売れていたのも本当は異常であり、100万部を下回るようになった今の方が正常だと思っている。僕からすれば、「発行部数が減少した」のではなく、「人々の好みが正常に多様化した」に過ぎない。現代人はマインドコントロールからやっと解き放たれたのだ。

 

だから、人それぞれ自分が好きなものを、それぞれのコミュニティの中で、好きなように享受していけばいい。今はそういう時代であり、僕が「スモールビジネスでいい」と言ってるのはそういう意味だ。

 

例えば、僕の好きな松村上久郎さんというイラストレーターは、「バンド・デシネ」という欧米圏の漫画スタイルで作品を描き、それをSNSなどを通じて宣伝し、ネットで販売したりしている。そうやって独自のコミュニティを作り、コアなファンを獲得して、自分なりの規模でスモールビジネスを展開されている。

 

 

ジャンプの部数(読者)が減っていく一方で、こうやって自分の手の届く範囲だけでビジネスをやっているクリエイターもいる。

「一億総表現者の時代」と言われる現代において、むしろ松村さんのような小規模ビジネスの方が、漫画のあり方に合っていると思えてならない。

 

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最後にひとつ余談を。

 

たぶん、今後の出版社の役割は、「プロモーター」から、「スポンサー」や「インベスター」へと変容していって、「ビジネスとしてスケールできるものにだけ出資する」という役割を担うようになると思う。

例えて言うなら、「やる気のある若者を雇って、繁盛店の店主に育てる」のではなく、「SNSでバズりまくっている田舎のラーメン屋をフランチャイズ化する」・・・みたいな話だ。口は出さずに金だけ出す、みたいな。

 

「気になってる人が男じゃなかった」を執筆されている新井すみこ先生もまさにそうで、同作がSNSでバズったのをきっかけにして、出版社(KADOKAWA)から単行本化のお声がかかった。

しかも、SNSでバズってる漫画の単行本は売れづらい傾向があるにもかかわらず、Xの作品更新だけで、200万部以上のヒットを記録している。「百合」という決してメジャーなジャンルではないにもかかわらず、だ。

 

 

作家からすれば、これが理想であることは言うまでもない。

 

これまでの商業漫画というのは、(特に週刊連載の世界においては)連載しているだけでは赤字であり、単行本がヒットしてようやく黒字になる・・・という意味の分からない搾取ビジネスだった。

「将来ヒットすれば赤字をカバーできるよ!それまでは耐え忍ぼうぜ!」と、漫画家にリスクを負わせて、ガッポリと印税を取ってきたのだ。そんなの漫画家からすれば嫌に決まってる。

 

そうではなく、基本はリスクを負わないスモールビジネスを展開していって、新井先生のようにビジネスとしてスケールできる場合のみ、出版社が出資して単行本化し、利益を分配する。この方がよっぽど健全である。

 

逆にいえば、それ以外に出版社の役割はなくなる。そんな日が来るような気もしている。

 

 

アップルペンシル用の木製グリップを買ったら最新のiPad Proが欲しくなった。

最近、ハンドメイドグッズを扱っているサイトを覗いていたときに、アップルペンシル用の素敵な木製グリップを見かけて、それが「グリップを装着したままマグネット充電できます」という謳い文句の代物だった。

 

僕は思わず、その商品を二度見する。

 

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以前、このブログでも紹介した葉車堂さんの木製グリップもそうなんだけど、この手の木製グリップというのは、装着したまま充電することができず、充電のたびにグリップを外さないといけない仕様になっている(・・・ことが多い)。

まーこれがヒジョーに面倒臭い。抜き挿ししているうちに緩くなってきてしまうおそれもあって、僕は次第に使わなくなってしまった。実際、数回抜き挿ししただけで、若干緩くなったような気もする。

 

 

というわけで、現在、僕はエレコムが出しているシリコングリップを使っており、装着したまま充電できるのはやっぱり楽だなーと実感している。握り心地もこれで問題ない。

 

 

ただ、シリコングリップにもちゃんと弱点はあって、使っているうちに汚れが目立つようになってくるし、長時間使用していれば手汗・手垢でベタベタしてくる。夏場は結構最悪だ。また、シリコンゴムなので、徐々に素材が伸びてきて、ちょっとしたはずみで抜けてしまうことも多々。

 

さらに、装着したまま充電できるように側面がフラットに加工されていて、普通のペンとは握り心地が異なる。これも地味にストレス。

 

なので、僕は、本音を言うなら、握り心地の良い木製グリップで、なおかつ、装着したまま充電できる物があったら、それを使いたいとずっと思っていた。

 

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「やっと自分の望みに適う物が見つかった」

 

僕が使用しているアップルペンシル第2世代にも対応しているということで、早速その木製グリップを購入した。

本当に届くのを心待ちにしていたし、おそらく、最近買った商品の中では、ダントツで一番期待した商品だと思う。

 

しかし・・・。

 

手元に届いた商品を試しながら戸惑いが増していく。

アップルペンシルにグリップを装着して、iPad側面のマグネットにくっつけると、ピタッと吸着するものの、まったく充電される気配がない。

 

「え、あれ・・・?」

 

グリップの上下を逆にしてみてもダメ。

マグネット吸着の位置を工夫してみてもダメ。

iPadを再起動してもダメ。

 

何をやっても充電できない。

 

その後、出品者に問い合わせて、色々とやり取りを進めていった結果、そのグリップは、Apple Pencil Proでは充電可能だけど、Apple Pencil 第2世代では充電できないことが判明した。

出品者の説明によると、Proと同じ寸法だったので、第2世代でも問題なく充電できると思い、確認していなかった・・・ということだった。謝罪して頂いたうえで、返品に対応するとお申し出頂いたが、僕はこれを丁重に断って、そのまま受領することにした。

 

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ガッカリしたのは事実だが、別に出品者に怒ってるわけではない。

 

もともとiPad Proを買い替える予定だったので、「その時のために取っておこう」という考えが先に出てきたというか。

要するに、そのグリップを返品するよりも、それを手元に取っておいて、新しいiPad Proを買いたいと思っちゃったのだ。

 

しかし、最新のiPad Proはめちゃくちゃ高い。

僕が欲しいM5チップ・13インチの1TBモデルは37万円もする。

 

 

パソコンと液タブを両方買うよりかは安いけど、普通に考えれば高い。

 

だけど、高性能のiPad Proを買って、この木製グリップを使って、良い作品を描きたいなーというモチベーションが湧いてきた。それまで頑張ろうと。何度も言うように高いけどね。

 

そろそろ秋晴れが見たいなーって思いつつ、滴り落ちる雨音を聞きながら、秋は深まっていく。