箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

Yahoo知恵袋における「上から目線」が異質なのは何故か?

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 Yahoo知恵袋を利用していたら、「それはあなたの甘えだ」「そんなことも知らないんですか?」…等々、やたらと上から目線で回答する方が結構な確率でいらっしゃる。調べても分からないから質問をしているのに、「自分で調べろ」と回答する方もいる。「まず自分の頭で考えなさい」と生徒の質問を突っぱねる塾講師かのようだ。

 「マウントを取りたいだけでしょ」と言ってしまえば簡単だけれども、Yahoo知恵袋におけるマウントは、なぜか異質に感じてしまう。それは何故なんだろう…という疑問を掘り下げていくエントリーです。

 

 

 

一方的なマウントに違和感を覚える時代

 平等社会が志向されると、スタンダードから少しでも外れる行動に人々は敏感になります。これを「違和感」と表現しても差し支えない社会、またそれを外部に対して意思表示できる社会は健全だと思いますが、私が気になるのは、その違和感の正体です。

 

 この点について、「「上から目線」の時代」の著者・冷泉彰彦氏は、次のように述べられています。

アメリカの場合はどうしても平等思想などの「タテマエ」が強いので「上から目線」だという不快感を感じても、ガマンしてしまうことが多いのです。その点で、日本の場合は言葉そのものに「上下関係の規定性」がありますから、上下の感覚として一方的な価値観が出てくると相手には顕著な違和感が出てくるし、結果的に「異議申立て」も多くなるわけです。

「上から目線」とは何なのか?」 NewsWeek 2012年1月18日記事

(下線は筆者によるもの)

 

 同氏の理屈をもう少し分かりやすく言えば、日本語という言語は、敬語や婉曲表現などを使用することによって、相手との適切な距離感を測りつつ、円滑なコミュニケーション関係を築こうとする非常にセンシティブな言語であり、この表現が少しでもスタンダードからズレれば、すかさず上下関係を規定することになってしまって、そういう一方的な物言いに対して、人々は「上から目線」だと感じてしまう…ということです。

 

 そして、この理は、おそらく事実上の上下関係の有無と関わりがありません。上司と部下のように、れっきとした社会的上下関係が存在する間柄であっても、度を超える表現については違和感を覚えますし、「上から目線」になってしまう危険性は、本当に上の立場に居る人にも潜んでいるのです。

 そう考えますと、アメリカ社会が「上から目線」に対して我慢する文化があるというのは、事実上の上下関係を言葉によって規定できないからのようにも思えます。

 

インターネットにおける上下関係の規定文化

 もっとも、リアルの世界における「上から目線」と、ネットにおける「上から目線」は、質の異なるもののように感じます。

 何故なら、リアルの世界では、まず事実上の上下関係が先行して、そこから言葉を選ぶのに対し、インターネットにおいては、先に言葉が来て、そこから上下関係を規定するという逆の文化が根付いており、おのずと「上から目線」の質は異なるからです。

 

 実名でのやり取りであればともかく、匿名でのやり取りであれば、年齢、性別、出身、職業等の相手の属性は分からず、相手の言葉遣いや知識、語彙力などから、相手の属性を推測し、上下関係を補完することになります。つまり、インターネット上の匿名でのコミュニケーションにおいては、言葉以外に、その背景にある上下関係を規定する術がないのです

 もちろん、全員に当てはまる話ではないですよ?ネット上では、上も下もないと考えている人にとって、上下関係なんてどうでもいいことです。そうではなく、どうしても上下関係をはっきりさせないと気が済まない一部の人たちが、懸命に言葉を駆使して上下関係を規定しているのです。

 そこでの「上から目線」というのは、上記冷泉氏が議論の対象としているような "言葉のあや" で思わず「上から目線」になってしまった、というものではないことは、すぐにお分かりいただけるかと思います。

 

Yahoo知恵袋での「上から目線」について考える。

 では、Yahoo知恵袋における「上から目線」はどうなのか。なぜ、Yahoo知恵袋は異質に感じてしまうのか、その本題に入っていきたいと思います。

 

 まず、Yahoo知恵袋のようなQ&Aサービスは、回答を請う側が「下」、回答を行う側が「上」という、無意識下での上下関係があります。弁護士のような専門家に相談に行く際に、お互いの関係は対等だと思える人はなかなか居ないでしょう。それと同じです。相手の属性を知るまでもなく、Yahoo知恵袋を利用するユーザー間で、自然と上下関係が構成されているという点に、私が異質と感じる原因のひとつがあります。

 

 そして、Yahoo知恵袋が異質だと感じるもうひとつの原因は、質問者自らが、進んで上下関係を規定しているという点です。例えば、質問者が「基本的なことも分かっておらず申し訳ありませんが」と下手に出たりしませんか?上から目線ならぬ、下から目線です。知らず知らずのうちに、「自分は下の立場です」と上下関係を規定しているのです(もちろん、教えを請う者の態度として普通のことです)。

 

 ネット上において、「自分は下の立場です」と上下関係を規定すること自体が、かなりのレアケースなんですが、ここからさらに考えられない対応が続くことになります。

 普通だったら、回答する側も恐縮して丁寧な対応になるところ、上下関係を規定しないと気が済まない人たちは、「私の立場は下です」と上下関係を規定する質問者に対し、「私の立場は上です」と上下関係を規定する言葉で応答(確認)しちゃうわけです。これは、リアルの世界および(通常の)ネットの世界のいずれでも起こることのない、かなり特殊な「上から目線」ではないかと。私が感じる異質さの一番の要因はここにあります。

 

むすびに

 冷泉氏の言う「上から目線」とは、どちらかと言えば、本人にその気がなかったのに、知らず知らずのうちに、強権発動型のコミュニケーションになってしまって、相手から「上から目線」と受け止められる危険性を秘めているという文脈の中で用いられています。

 これは要するに、言葉の機微によって相手との距離感を間違えてしまうかもしれない日本語が抱えるリスクとどのように向き合うかという議論であって、Yahoo知恵袋のように意図的に上下関係を規定しているケースでは、この議論は当てはまりませんし、本記事でも取り扱っていません。

 

 ただし、上下関係を規定するリスクと背中合わせにある息苦しい世の中と、はっきり上下関係を規定することを文化として持っているインターネット社会のどちらが健全と言えるだろうかといった議論に発展させていくことは可能だと思いますし、軽々と一線を越えて「上から目線」になってしまえる回答者たちの姿勢は、「上から目線」にならないように懸命にリスクヘッジを測る現代人の苦悩の先にある、先鋭的な図々しさのようにも映るのです。

 

潜在的な「通り魔予備軍」と相互監視社会が担う役割

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  つい先日、ニュースなどで流れていましたが、新宿駅で女性にわざとタックルする男性の動画が話題になっていますね。

 

www.j-cast.com

 

 肩がぶつかるぐらいだったら、ただの迷惑行為ぐらいで済むかもしれません。ただですね。もし仮に、ぶつかった拍子に相手の女性が転倒し、ケガでもさせたられっきとした刑事事件になります。

 なので、もしこういう男性の標的にされて、タックルされたら、演技でもいいので転んでみたり、思いっきり痛がってみましょう。本人もまさか大ごとになるとは思っていないはずなので、たぶん慌てふためくと思います。あるいは、女性しか狙えないチキン野郎なので、その場から逃げ去ると思います。

(もちろん、本当にケガしそうな危険なタックルなのであれば、自らの身を守ることを第一に考えるのが前提です)

 

 とまあ、私が思う対処方法はそのぐらいにして、本題に入ります。

 今回の件を目にして、私が思うことは、まず一つ目に、こういう無差別な迷惑行為を行う通り魔予備軍が、一定数私たちのすぐ身近に潜在しているということ。もう一つは、これまでは検挙に至らなかった通り魔暴行犯を検挙できるかもしれない世の中になってきたということ。主にこの2つです。

 

通り魔事件の検挙件数の推移から見る実情

 法務省の公表している「犯罪白書」や、警察庁が公表している「犯罪情勢」を見る限り、平成5年以降、通り魔殺人事件の検挙(認知)件数は、平成20年の14件を除けば、いずれも9件以下で推移しています。これは、昭和55年の統計にまで遡ってみても、同じような件数で推移しているように見受けられます。

(昭和55年以降、通り魔殺人の検挙(認知)件数が10件を超えた年は、昭和57年、昭和60年、昭和63年、平成8年、平成10年、平成20年だけです)

 

 つまり、直近の約40年間、日本における通り魔殺人は、増えるわけでもなく、かと言って減るわけでもなく、年によって多少の振れ幅はあるものの、一定数を保ちつつ推移しています。

 そして、(古いデータになってしまいますが)昭和57年の犯罪白書を紐解きますと、通り魔事件の発生件数は、総数254件、罪名別では、殺人が7件、傷害が112件、暴行が25件となっています。同資料において、「被害者と全く無関係な犯人による通りすがりの犯行であるため、犯行後犯人が逃走した場合、その特定が難しく、検挙が困難」という記述があることから、おそらく、検挙に至らなかった暴行傷害事件が、通り魔殺人事件の背後に相当数潜んでいると思われます。

 

 そう考えていきますと、話題の彼は、今のところ、ただぶつかっているだけなので可愛いものですが(迷惑極まりないですが)、むしゃくしゃがエスカレートされていき、そのうち、女性を殴りつけたり、凶器を使って殺傷するなどの犯罪行為に及ぶのではないかと疑ってしまいますし(ただ、話題の彼については、そこまでの度胸はないと思いますが)、そういう「通り魔予備軍」が、一定数自分たちの身近に存在するということを、我々は常に頭の片隅に置いておかなければならないと思います。

 

相互監視社会の到来によって泣き寝入りは減る…かもしれない。

 通り魔事件のうち、殺人事件については、犯罪認知後、年内に検挙されることが大半です。秋葉原無差別殺傷事件のように、大勢の人混みの中で犯行に及び、その場で現行犯逮捕されることもあります。

 しかし、上述のとおり、殺人には至らない傷害、暴行、痴漢等の通り魔事件の場合、犯行後、すぐに犯人がその場を後にすると、現場には証拠らしきものは何も残らず、被害者と特定の接点を持たない犯人を特定することは困難を極めることになり、被害者は泣き寝入りせざるを得ないことがほとんどでした。

 

 こうした流れの中で、近年、監視カメラの設置数の増加とともに、スマートフォンが爆発的に普及したことにより、突発的に発生した犯罪であっても、写真や動画という形で証拠保存することが可能な相互監視社会が到来しました。先日の日大と関学大のアメフトの試合においても、問題となった反則行為は動画という形で鮮明に記録されています。

 そして、今回の迷惑行為についても、バッチリ動画という形で記録されています。監視社会の到来によるプライバシー権(自己情報コントロール権)の侵害の問題とか、ロースクール時代に憲法の論文試験で出題されたような気もしますが、このような相互監視の傾向は、犯罪の抑止・検挙に資するものであることはもはや疑いようがないと思われます。これまでだったら泣き寝入りせざるを得なかったような通り魔事件であっても、今後、多少なりとも検挙率が上がることを期待します。

 

通り魔予備軍のうちに心の闇に光を照らす社会を。

 凶悪な無差別殺傷事件を起こした犯人の供述を聞いていますと、歪んだ正義を持っている犯罪者もいますし、ハッピー・スラッピングのような愉快犯もいますが、社会に対する不満や劣等感が徐々に蓄積され、ある時、その不満が一気に爆発する犯罪者もいます。

 話題となっている彼も、何かしらイライラするようなことがあったんだと思います。自分より弱い立場にある女性にわざとぶつかってストレスを解消しているつもりなんでしょう。やっていることは本当に幼稚なんですが、彼の抱えるストレスが一過性のものではなく、彼の心を覆いつくす闇なんだとしたら、彼のタックルは、迷惑行為であると同時に、SOSサインでもあると思うのです。私にはそう見えます。

 

 良い歳をした大人が、そんな形でしかSOSを出せないこと自体、おかしな話なんですが、拡散された動画を見た彼の友人や身近にいる人間が、彼の異変に気付いてあげられたら良いなと思います。最終的に、自分の心と向き合うのは本人ですし、これから先の人生は全て彼自身の責任ですが。

 そんなことをあれこれと考えていきますと、相互監視社会の到来は、これまで泣き寝入りをせざるを得なかった被害者を救済するだけでなく、社会の雑音の中に消えゆく運命にある人々の心の闇とSOSの声に対して、スポットを当てることにもなるんじゃないかとも思えます。

 

「世界の広さ」の観点から見るオープンワールド論

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 久しぶりにゲーム関連の記事です。 

 最近、ゲーム界隈でひとつのキーワードとなっている「オープンワールド」をめぐって、「世界の広さ」ってなんだろう的な記事をふと書きたくなったので、好き勝手に私の考えるオープンワールド論を書いてみたいと思います。

 

限定的な行動範囲の中で「世界は狭い」と感じるか。

 私は、実家で猫を飼っていました。名前を「ダイスケ」と言います。

 生まれたての子猫の頃からダイスケを実家に引き取り、そのまま成長し、年老いて死んでしまったので、ダイスケは「外の世界」を知りません。外飼いではなかったですし、どこかに連れ出すこともほぼなかったので。

 ダイスケにとって、私の実家が世界の全てだったんだろうと想像すると、何とも言えない気持ちになります。私の実家の外には、私たち人間ですら想像も及ばないような広大な世界が広がっているにもかかわらず、ダイスケはそれを露にも知らずに、一生を終えたのです。

 

 では、ダイスケが、自分が生きている世界を「狭い」と思っていたのか、それとも「広い」と思っていたのか。もちろん、その気持ちを正確に推し量ることは叶いませんが、たぶん、どっちでもなかったと想像します。以下、その理由です。

 例えば、自分の幼少の頃を少し思い返してみてください。幼少期は、自分の足で遠くまで行くことはできないし、親が同伴しなければ、電車などの交通機関を利用して遠方の土地を訪れることもできません。行動範囲で言えば、せいぜい自分が住んでいる地元の街ぐらいが限度だったんじゃないでしょうか(子どもの頃から、世界を転々とするような生活をしていた人もいるかもしれませんが…)。

 それだけ限定的な行動範囲の中で生きていくことを強いられていながら、「この世界は狭いなぁ」と思う瞬間なんてなかったと思います。少なくとも私は、そんなことを思ったことはないです。いや、そもそも「世界は広いか、狭いか」などというテーマが頭をかすめることすらなかったです。はい。

 

 それは、世界の大きさを知らない子どもだからであって、経験や知識が圧倒的に不足していたからに他なりません。だとすれば、「世界を狭いと思うか、広いと思うか」という判断基準は、実際の行動範囲の広狭に左右されるのではなく、経験や知見に基づいて世界の大きさを推測できるかどうかに左右されるのだと思うのです

 その証拠に、私たち大人の行動範囲もそれなりに限定的であるにもかかわらず(極端な話を言えば、家と会社を往復するだけの生活を送っている人もいると思います)、私たち大人は、「世界が狭い」と思うことはないと思います。普段降りることのない駅には知らない道があり、会社と反対方向に進めば知らない店があるというように、まだ見たことのない風景がこの世界に存在することを知っており、自分の行動範囲が「世界のほんの一部分」であることを、これまでの人生経験や知識をもとにして理解しているからです。

 

世界の広さは「想像」する(させる)ものである。

 昔プレイしていたFF7を例に取ります。

 あのゲームは、冒頭において、「ミッドガル」という街を舞台にして物語が進んでいきます。プレイヤーの行動範囲は実に限定的です。その後、ある程度物語が進むと、ミッドガルを脱出するイベントが発生し、ただっぴろい荒野に放り出されるのですが、このとき、プレイヤーは初めて、ミッドガルの外に広大な世界が広がっているということを知ります

 

 私は、これまでゲームをプレイしていて、あの時ほど、ゲームの世界が「広い」と感じたことはありません。なぜ、あのとき、「世界は広い」と感じたのか。冷静に考えてみますと、その理由が分かる気がします。

 まず、プレイヤーは、最初の数時間のプレイにより、ミッドガルが世界の全てであると頭に刷り込まれます。ミッドガルには色んな街やダンジョンがあり、色んなイベントが起こるので、ミッドガルが世界の全てであると言われても疑う余地がないのです。そのぐらいミッドガルはよく作り込まれています。

 そして、ある程度ミッドガルを体験させたあとに、「じつは、ミッドガルは世界の一部でした」と種明かしをすることにより、これまでプレイヤーが考えていた世界の広さの概念が破壊され、プレイヤーの中で、世界観を再構築する必要性が生じます。しかも、このとき、プレイヤーをただっぴろい荒野に放り出すことにより、プレイヤーの想像力を掻き立たせています。

 

 この演出は秀逸と言いますか、世界の広さのインパクトを与えるにあたって最も効果的な手法だったと思います。想像したところで、その広さがはっきりと分からないからです。固定概念が破壊され、想像の及ばないものに直面したときに、人間はこれまで体験したこともないような衝撃を目の当たりにするんだと思うのです。

 私の実家が世界の全てであると思い込んでいたダイスケが、「実は、私の実家は世界のほんの一部で、実家の外には想像できないような広大な世界が広がっている」という事実を知れば、おそらくとてつもない衝撃を抱いたのではないかと想像します。

 

オープンワールドは矛盾している。

 そう考えていきますと、私には、少なくとも「世界の広さ」をプレイヤーに印象付ける点に限って言うならば、オープンワールドは矛盾しているように思います。だって、最初から、世界の大きさの限界をプレイヤーに教えているからです。

 「大体このぐらいの大きさです」と種明かしをされている状態でプレイをして、本当にそのぐらいの大きさだったとしたら、どこに驚きや衝撃が生まれるでしょうか。最初は驚きの連続かもしれませんが、世界の広さの限界が分かっているプレイヤーからすれば、その驚きが延々と増していくことはありません。

 

 私にとって、FF15がまさにそんな感じでした。

 最初は、美麗な風景に心奪われ、これからどんな冒険が待っているのだろうと心を躍らせますが、車を走らせども走らせども、見えてくる風景はガソリンスタンドと荒野ばかりで、街と呼べる場所はほんのわずか。これがずっと続くのか?と思っていたら、本当にそれが続いたので、当初想像したとおりの世界がそこにあったというだけで終わっています。

 そう考えますと、「世界の広さ」をプレイヤーに突き付けるためのレトリックとして、オープンワールドという手法は違うんだろうなぁーと。あくまでも、プレイヤーの行動の自由を担保するためのシステムに終始しているように思えます。

 

世界の広さを想像させる工夫を。

 もし、オープンワールドという形式をとりつつ、世界の広さをプレイヤーに印象付けたいのであれば、繰り返しになりますが、プレイヤーに「想像」させる必要があると思うのです。

 例えば、全体マップを明かさないままゲームを進行させるとか、全体マップだと思っていたワールドが実は世界の一部で、もっと広大な世界が広がっているとプレイヤーに気づかせるとか。ウィッチャー3をプレイしていて、ホワイトオーチャードが世界の全てだと思っていたら、実は、スケリッジ諸島とかノヴィグラドとか他にもマップがあると知ったら、「え、そうだったの!?」って普通に驚くと思うんですよね。

 

 今回は、オープンワールドにおける「世界の広さ」だけに焦点を絞りましたので、「いや、そうじゃなくて密度の問題なんだよ」とか、「違う違う。広さじゃなくて自由度の問題なんだよ」といった意見もあると思います。

 ただ、個人的には、ゲームへの没入感って、非日常を感じられる部分、すなわち「ただっぴろい世界を旅してみたい」という欲求の充足にあると思っているので、オープンワールドを開発する側には、「家と会社を往復するだけの日々に退屈してんだろ?いつもは降りない駅に降り立つ体験をさせてやるよ」と言って欲しいのです。ダイスケが見ることのなかった風景を目の当たりにするが如くに。

 最近のオープンワールドに対してはそんなことを思っています。

 

日大アメフト選手の記者会見に想う。

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 昨日、日大アメフト部の選手(以下「日大選手」といいます。)が、実名・顔出しで記者会見に応じました。

 実のところ、明日24日、日大の正式回答(2回目)が出されるのを見てから、再度ブログでこの問題を取り上げようと思っていたのですが、若干20歳の学生が、記者会見を開くという異例の事態を目の当たりにし、日大アメフト部及び日大の対応にとてつもない違和感を感じたため、フライングで記事を書きます。

 

(前回の記事はこちら↓)

 

 

日大アメフト部の対応は完全アウト。

 企業不祥事に例えてみます。

 ある有名企業に勤める社員がコンプライアンス違反を起こし、周囲から「経営上層部による不正行為の指示があったのではないか?」と疑われている最中、社長が全く表に出てこず、コソコソと逃げ回っていたとしたら、世間は「クロ」と見なします。「弁明できることがあるなら、公の場に出てきて弁明すればいいし、やましい気持ちがあるからこそ、弁明できないのだろう」と。

 このような対応は、経営トップとしてはあり得ない行動ですし、危機管理を心得ている経営者であれば、どこまで詳細に話すか、どのように話すかは別として、ひとまず会社としての見解を発するのが普通です。と言いますか、説明責任を果たすべき立場にある者はそうしないといけないんです。

 法務の立場から見ますと、指示があったかどうかに関わりなく、そのような初期対応をとらなかった時点で、内田前監督をはじめとする日大アメフト部の対応は完全アウトです。「なぜ、すぐにコメントを出せなかったのか?」と、体制の不備を突っ込まれることになりますし、苦しい言い訳に終始することになります。そもそも、すぐに謝罪しなかった時点でアウトですけどね。

 

 また、初期対応だけでなく、その後の対応も完全アウトです。

 社長の責任が問われている渦中において、やっと社長が姿を現して、「この場ではお話できません。調査のうえ、後日書面で回答します」と言葉を発したら、世間は「どこまで逃げるつもりなんだ」「誠実さのかけらもないな」と思うでしょう。社長が表に出てくる以上、周囲は、詳細な話が聞けると期待しますし、組織の危機的状況において、「黙して語らず」という態度をとることは、トップの人間がやることではありません。

 「全ての責任は自分にある」と言いつつ、説明責任を果たせない時点(そのような人間がトップに立っている時点)で、正直、日大アメフト部に期待できることは何もありません。彼らを突っついても何も語らないのですから、あとは、アメフト部を総括する立場にある日本大学が全ての問題を引き受けて、真相の究明と説明責任を果たしていくしかないと思います。

 

日本大学の対応も今のところアウト。

 日大アメフト部の部長および監督名義で提出された当初の回答文によりますと、「選手に対して、ルールに基づいた厳しさを求めることはあっても、違反行為を指示するようなことは全くない」「指導者による指導と選手の受け取り方の間に乖離があった」と弁明しています。

 しかし、日大選手および日大選手の記者会見に同席した代理人弁護士の話によりますと、反則行為があった試合当日はもとより、試合後においても、問題となった反則行為に対して、監督・コーチからの聞き取り調査はなかったと明らかにされています。選手に対して、大学からの聞き取り調査はあったようですが、それはアメフト部による聞き取りではないという点も代理人弁護士が確認しています。

 アメフト部からの聞き取り調査が行われていないのに、なぜ「乖離があった」と言えるのか。代理人弁護士の方によるこの問題提起はまさにその通りですし、非常に鋭い視点だと思います。要するに、上記回答文は、日大選手が監督・コーチの指示をどのように受け取ったのかという点について、アメフト部が確認していないにもかかわらず、「乖離があった」と一方的に決めつけて提出されたモノだということです

 

 内田前監督は、説明責任を果たす気がないようですから、日大アメフト部にまともな回答を期待するのは無理な注文だと思います。それならば、せめて日本大学にまともな回答を行って欲しいと願うばかりですが、日大選手の記者会見を受けて、日大広報部は下記コメントを発表しています。

 

会見全体において、監督が違反プレーを指示したという発言はありませんでしたが、コーチから「1プレー目で(相手の)QBをつぶせ」という言葉があったということは事実です。ただ、これは本学フットボール部においてゲーム前によく使う言葉で、「最初のプレーから思い切って当たれ」という意味です。誤解を招いたとすれば、言葉足らずであったと心苦しく思います。

(下線は筆者によるもの)

 

 このコメントに対して、何とも言えない "気持ち悪さ" を感じるのは私だけでしょうか。

 日大選手は、「潰せ」という指示があったことだけではなく、「相手のQBがケガをして、秋の試合に出られなかったら、こっちの得だろう。これは本当にやらなくてはいけないぞ」と、コーチから念を押されたことも証言しています。これは違反の指示ではなく、監督のいう「潰せ」という指示が、「ケガをさせろ」という意味であることを明確にする趣旨の発言です。

 もし、「潰せ」という指示が、日大アメフト部において、伝統的に「思い切って当たれ」という意味で用いられており、試合当日においても、監督がそういう意図で使用していたのだとすれば、監督による指示とコーチの受け取り方の間にも乖離があったということになります(あくまでも、本当にそういう意味で使用していたら…という話ですが)。

 ならば、問題の本質は、指導者による指導と選手の受け取り方の間の乖離ではなく、監督の指示を正しく把握できなかったコーチ陣の情報共有・意思疎通の問題ということになりませんかね。監督の意図はさておき、監督の指示をコーチが勘違いして、誤って選手に伝えていたんですから。

 

選手が会見で話されたとおり、本人と監督は話す機会がほとんどない状況でありました。宮川選手と監督・コーチとのコミュニケーションが不足していたことにつきまして、反省いたしております。

 

 いや、違うでしょ。上記の理屈でいうなら、反省すべきは監督とコーチの間のコミュニケーションが不足していたことなんじゃないんですかね。

 この点に関する言及が一切なく、「監督が違反プレーを指示したという発言はありません」と結論付けるのは、問題の本質からズレていますし、事実の確認及び適示があまりにも稚拙です。

 

 あとですね。「潰せ」という言葉が「思い切って当たれ」という意味で用いられているという事実について、監督・コーチなどのアメフト部関係者からの聞き取り調査によって判明したものと想像しますが、この点について、大学は、日大選手に確認したんですかね?

 少なくとも記者会見での話を聞いている限り、日大選手は、こういう指示を恒常的に受けていた様子はなく、本当に試合前によく使われる言葉なのか?と疑問に感じます。もし、日本大学が、監督・コーチの説明だけを一方的に採用しているのだとすれば、日大の調査に全く公平性はなく、そんなコメントを垂れ流している時点で、日本大学の対応も非常にお粗末な印象を受けます。

 

日大にとって、ここから先はいずれにせよ茨の道。

 日本大学は、「反則行為の指示があった」という選手側の主張を採用することも出来たはずであるのに、「監督・コーチによる違反プレーの指示はなく、指導者による指導と選手の受け取り方との間に乖離があった」というアメフト部が提示した当初のシナリオを採用しました。おそらく、明日もその旨を繰り返す回答文を発表するのでしょう。

 この道を選んだ以上、ここから先は本当に茨の道です。もし、監督・コーチに捜査が及ぶなどして、反則行為(暴力行為)の指示の事実が明らかとなれば、監督・コーチに協力して、事実を隠蔽しようとしたのではないかとの批判は避けられません。

 そうでなかったとしても、「学生を見捨てた大学」「学生を守れなかった大学」というイメージはずっとつきまといます。このイメージダウンを回復させるのは並大抵のことではありませんよ。

 

 引き返せないところまできてしまったという印象も受けますが、ひとまず明日24日の回答に注目したいと思います。

 

(2018年5月24日追記)

 この記事をあげた直後に、日大アメフト部・前監督およびコーチによる記者会見が開かれ、改めて違反の指示はなかったと釈明しましたね。双方の主張の食い違う部分については、今後の捜査の中で明らかにされていくことを願います。

関学大と日大のアメフトの試合に関する刑法上の視点など。

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 先般、話題となっている関学大と日大とのアメフトの試合で起こった危険なラフプレーについて、関学大が、日大に公式謝罪を求め、指導者による指示によるものかどうか、原因の究明を求めるのは当然すぎるほどに当然です。

 

 報道によりますと、問題となるラフプレーを行った日大の選手はアメフト部を退部することになったそうですが、本日は、問題となった試合について、刑法上の問題点に触れながら、スポーツの指導者が担うべき役割・責任について言及したいと思います。

 

 

1. スポーツ傷害が罪にならない理由

 アメフトは、選手同士が激しくぶつかり合う非常に激しいスポーツですが、もし仮に、ルールの範囲内でプレーした結果として、出場選手が傷害を負った場合であっても、ご存知のとおり傷害を負わせた選手は罪に問われません。このようないわゆる「スポーツ傷害」は、刑法第35条に定める「正当行為」として違法性が阻却されるからです。

 

刑法第35条(正当行為)

法令又は正当な業務による行為は、罰しない。

 

 ボクシングなどの格闘技においても、正当行為に該当することを理由として、相手に傷害を負わせても罪に問われません。私生活上の暴行とスポーツ行為は、質的に全く異なるものなのです。

 ただし、スポーツ傷害に関して、刑法第35条の正当行為ではなく、いわゆる「被害者の同意」に違法性阻却の根拠を求める見解も有力ですが、本日の記事では、正当行為による違法性阻却を念頭に置いて論を進めます。

 

2. 正当行為として違法性が阻却されるための要件

 スポーツ傷害が正当行為に該当するものとして違法性が阻却されるとしても、いかなる場合でも罪に問われないというわけではありません。正当行為として認められるための要件があります。

 この点、スポーツ行為が「正当行為」として違法性が阻却されるためには、①スポーツを行う目的の下、②ルールを遵守して行われ、③相手方の同意の範囲内で行われることを要件として判示したもの(大阪地判平成4年7月20日 判例時報1456号159頁参照)があります。以下詳述します。

 

 まず、最初のスポーツ目的要件(①)について。

 例えば、単なる「しごき」目的で行われた部員に対する暴行が問題となった「ワンダーフォーゲル事件」では、部員に対する暴行は、スポーツ目的で行われたものとは認められず、刑法35条の適用は否定されています(東京地判昭和41年6月22日)。この理に鑑みれば、プロ野球における乱闘などは、もはやスポーツを行う目的ではないので、正当行為には当たらないと思われます。

 

 次に、ルール遵守要件(②)について。

 仮に、スポーツを行う目的であったとしても、ルールを遵守しなければならないことは言うまでもありません。既にゴングが鳴って、レフェリーがストップしているにもかかわらず、相手を殴り続けてケガをさせたら、もはやスポーツ性は否定され、正当行為とは認められません。このように、判例は、ルールの範囲内でスポーツ行為を行うことを要求しています。

 

 最後に、相手方の同意要件(③)について。

 「相手方の同意の範囲内で行われること」も重要な視点です。スポーツ目的で行われ、それがルールの範囲内だったとしても、例えば、相手がルールを理解していないような初心者であった場合において、それを分かったうえで、手加減無しでタックルしたり、殴ったりしてケガを負わせたら、正当行為とは認められない可能性があります。相手はルールを理解していないので、同意があったとはいえず、スポーツの範疇を超えたものとみなされるからです。

 

 以上のように、判例は、スポーツ行為を行う主体の主観(スポーツ目的)、スポーツ行為の相手方の主観(同意)、スポーツ行為の態様(ルールの範囲内)という観点から、総合的に正当行為に該当するかどうかを判断しています。

 

 翻って、今回のアメフトの問題を考えてみるに、冒頭にも述べたとおり、アメフトは選手同士が激しくぶつかり合うスポーツです。そのため、このようなスポーツの特性を理解したうえで、試合に出場していた関学大のQBの選手も、ルールの範囲内においてタックルされることは同意していたといえますし、その限りにおいてケガを負ったとしても、日大の選手の行為は、正当行為として特に問題はなかったでしょう。

 しかし、危険なタックルをした日大の選手が、もし、関学大の選手を痛めつけることだけを目的としていたのであれば、スポーツ目的ではなかったと言えます。実際、どのようなことを考えていたのかは不明ですが。

 また、ボールを持っていない選手に対するタックルや背後からのタックルは、ルール上禁止されているので、日大の選手は、ルールを逸脱したスポーツ行為に及んだことになりますし、ボールを投げ終わった後の無防備な状態でタックルされることまで、関学大のQBの選手は同意していないでしょう。

 そのように考えていきますと、今回の危険なタックルは、正当行為として違法性が阻却されるものではないと思われます。

 

3. 危険なプレーを伴うスポーツにおける指導の重要性と指導者の責任

 ここから先は法律論を離れますが、今回の騒動を受けて、私が思うことは、危険なプレーを伴うスポーツに従事する上位者(監督、コーチなど)の指導がやはり重要であるということ。

 なぜなら、危険なラフプレーによって、選手たちの身体・生命の安全が脅かされるという点もさることながら、一歩間違えれば、選手が犯罪者になってしまう可能性も秘めているからです。このことは、スポーツ傷害が正当行為と認められるための判例の規範を見ていても明白であり、危険なプレーを伴うスポーツに従事する指導者は、選手に対して、しっかりとルールを理解させたうえで、ルールの範囲内でプレーすることを徹底させなければなりません。それが、相手チームの選手だけでなく、自チームの選手を守ることにも繋がります。それだけの重い責任を負っているのです。

 

 もし、そのことを深く認識せず、ちゃらんぽらんな指導者だったとしたら大変なことになります。「ボールを持っていない無防備な選手に、背後からタックルを仕掛けろ」などと、ルールを無視するようなことを指導していたとしたら、スポーツとして成立しないばかりか、相手チームの選手を危険な目に遭わせ、加えて、自チームの選手が犯罪者になってしまいかねません(もちろん指示を出した本人も)。

 危険なプレーを伴わないスポーツだったら、別にちゃらんぽらんな指導者でも良いという意味ではありませんが、その責任の重さは比にならないのです。

 

4. むすびに

 危険なプレーを伴うスポーツに従事する指導者が、上記のような重い責任を負っているがゆえに、冒頭において、私は、「指導者による指示によるものかどうか、原因の究明を求めるのは当然すぎるほどに当然」と申し上げました。

 もし、今回の一件が指導者の指示であったとしたら(故意だったとしたら)、「ごめんなさい」では済まないからです。日大アメフト部の存続だけでなく、選手・監督の刑事責任の追及、被害を受けた関学大の選手による損害賠償請求など、問題が更に拡大していくことは想像に容易いです。