箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

「何を書くか(伝えたい内容)」と「どう書くか(伝え方)」の組み合わせで作家性が決まる。

「シナリオ・センター式 物語のつくり方」によると、物語のつくり方は「何を書くか」と「どう書くか」という、2つの要素からできているという。

 

さらに著書は続ける。

「何を書くか」はその作家だけが持つ作家性であり、「どう書くか」は物語をつくるための技術であって、この2つの要素の掛け算によって面白い物語は生まれると主張する。もしも、ありふれた作品しか書けないのだとしたら、技術と作家性の両方が足りないのだと。

 

 

そして、「ストーリーを伝える:色、光、構図 Vision」によると、「言わんとすることが響くのは、伝えようとする内容と、その伝え方が一致したとき」だという。

 

 

つまり、これら表現のプロたちの助言を整理すると、「何を書くか(伝えようとする内容」と「どう書くか(その伝え方)」の2つの要素が上手く噛み合ったときに、初めて見る人の心に響き、それは「面白い」という感情へと繋がっていく・・・ということになる。

 

「何を書くか(伝えたい内容)」

僕はさらに一歩進んで、「何を書くか(伝えたい内容)」という部分については、「その作家のテーマ」と「取り組みたいジャンル」に細分化できるのではないか・・・と考えている。

 

僕がここで言う「テーマ」というのは、そんなに小難しい概念ではなく、単純に「読者にどういう感情になってほしいか」という視点だと思ってほしい。

つまり、漫画にしても、小説にしても、映画にしても、およそ物語コンテンツというのは、「感情体験の提供」であり、「ドキドキハラハラ」とか、「胸がキュンキュン」とか、「思わずゾッとする」とか、そういった「感情体験」がベースにある。作家はどういう感情体験を読者に届けたいのかをまず考えなければならない。

 

もうひとつの要素は「ジャンル」だ。例えば、「胸がスカッとするような感情体験を届けたい」というテーマは決まっていたとしても、それを伝えるジャンルは数限りなくある。今流行りの「復讐系」もあるし、王道の「能力バトル漫画」や「異世界ファンタジー」もあり得る。

重要なのは「テーマ」の方なので、ジャンルはあとから変わっても良いと思うんだけど、ここがビシっと定まっている方が作家性はブレないし、後述するように、その作家にしかないオリジナリティへと繋がっていく。

 

ここまでをまとめると、「何を書くか」という部分については、「テーマ」と「ジャンル」の組み合わせによって決まると僕は考えている。

 

  • 「思わず目頭が熱くなる」+「家族ドラマ」
  • 「胸がキュンキュンしてしまう」+「大人のラブストーリー」
  • 「シュールな笑いに思わずニヤリとする」+「学園コメディ」
  • 「男のカッコよさに惚れてしまう」+「SFアクション」

 

・・・などなど。

 

ここでひとつ断っておくと、僕は「テーマ」と「ジャンル」の組み合わせ自体はありきたりでも良いと思っている。例えば「カワイイ女の子たちに胸がキュンキュンしてしまう学園ハーレム漫画」なんて、それこそ星の数ほどあるが、別にそういう普通の組み合わせでも構わない。

 

何故なら、テーマとジャンル自体はありきたりだったとしても、その伝え方次第で作家性は無限に広がっていくからだ。詳しくは後述する。

 

「どう書くか(伝え方)」

冒頭にも述べたとおり、面白い物語というのは、「何を書くか」と「どう書くか」の掛け算であり、「何を書くか」を考えたとしても、それだけでは足りない。

 

むしろ重要なのは「どう書くか(その伝え方)」だと僕は思う。

 

例えば、「胸がドキドキハラハラする能力バトル漫画」を描きたいと思ったとしよう。しかし、その「伝え方」は無限にある。シリアスに描くこともできるし、コメディタッチに描くこともできる。絵柄だって様々だ。リアルタッチで描くこともあれば、デフォルメの効いた可愛らしい絵柄で描くこともある。

「シリアスでスタイリッシュな絵柄で描く」のであれば、冨樫先生の「HUNTER×HUNTER」とか、芥見先生の「呪術廻戦」のような作品になるし、「奇想天外に描く」のであれば藤本先生の「チェンソーマン」のような作品になるし、「コメディタッチに描く」のであれば、堀越先生の「僕のヒーローアカデミア」のような作品になる。

 

同じ「胸がドキドキハラハラする能力バトル漫画」でも、描き方を変えれば全然違う作品になる。さきほど僕が「テーマとジャンルの組み合わせはありきたりでも良い」と言ったのは、これが理由である。「どう描くか」によって、テーマやジャンルの可能性(作家性)は無限に拡大していくからだ。

 

そして、この「伝えたい内容」と「伝え方」は一致していなければならない。

 

例えば、「女の子の可愛さに胸がキュンキュンしてしまう学園ハーレム」が描きたいと思っているのに、女の子が全然可愛くなければ、読者の心には全く響かず、「この作者は何が描きたかったのだろう」と思われてしまう。このように「伝えたい内容」と「伝え方」が一致していなければ、感動は生まれない。

 

「何を書くか」と「どう書くか」の組み合わせ方

ここで、「何を書くか(伝えたい内容)」と「どう書くか(その伝え方)」の組み合わせ方について、僕なりに考えていることをいくつか書いていきたい。

 

まず、この2つが一致している人は問題ない。そういう人は作品に決定的なミスがない限り、既に何らかの形で認められていると思う。

問題は、この2つが一致していない人であり、おそらく、ほとんどの場合は「伝え方」の技術が足りていないことが原因だと思われる。

 

と言うのも、新人作家はどうしても難しいテーマとジャンルを選ぶ傾向にあり、例えば「スタイリッシュでカッコいいアクション漫画」とか「胸が締め付けられるような恋愛物語」といった人気ジャンルを選びがちである。いずれも少年・少女漫画の王道だ。

しかし、「カッコいい」とか「胸が締め付けられる」という感情体験を提供するためには、かなり高いレベルでの画力が必要になり、「伝え方」にも相応の技術が求められる。ところが、そのレベルに達していないことが多いので、「カッコいい」という感情体験を提供することができず、「伝えたい内容」と「伝え方」の間に齟齬(そご)が生じてしまっている・・・というわけだ。当然、それでは読者の心には響かない。

 

この場合、ミスマッチを解消する方法は2つある。

「今の自分の技術力に合わせて、伝える内容を変える」か、「伝えたい内容は変えずに、伝えるための技術を磨いていく」か。このどちらかだ。

 

さきほどの例で言うと、カワイイ女の子を描く技術が無いのであれば、伝えたい内容を「キュンキュンしてしまう学園ハーレム」から「ゲラゲラと笑ってしまう学園ドタバタコメディ」に変更することによって、「伝えたい内容」と「伝え方」が一致する可能性がある。

後者であれば、別にカワイイ女の子を描く必要はなく、むしろヘンテコなビジュアルのキャラの方が合ってるかもしれないからだ。こういう風に、「何を書くか(伝えたい内容)」を変更することによって、ミスマッチを解消する方法もある。

 

あるいは、どうしても「キュンキュンしてしまう学園ハーレム」が描きたいというのであれば、「カワイイ女の子」を研究しまくって、「カワイイ」という感情体験を提供するための「伝え方」の技術を磨いていくしかない。

 

*****

 

あと、「伝えたい内容」と「伝え方」が一致していない人のもうひとつのパターンとして、伝え方の技術はあるんだけど、その組み合わせにミスマッチが生じていたり、あるいは、その組み合わせがありきたりだったりする人もいる。

 

例えば、その人自身が自分の作家性を勘違いし、自分に合っていないテーマやジャンルをずーっと描き続けているというケースもある。スパイファミリーの遠藤達哉先生は、長年にわたってシリアスな漫画を描き続けてきたが、それではなかなか芽が出ず、コメディ漫画に転身したことによって、ようやく世間から認められた。

遠藤先生にとって、「涙あり笑いありのスパイコメディ漫画(伝えたい内容)」を「可愛らしい絵柄でコミカルに描く(伝え方)」のが合っていたのだ。このように、「伝えたい内容」と「伝え方」には、その人にバシッとハマる組み合わせがあると僕は思っている。

 

また、僕はさっき「テーマとジャンルの組み合わせはありきたりでも良い」と言ったが、それは「どう書くか」によって可能性は無限に広がることが理由だった。つまり、「何を書くか」という部分はありきたりでも良いんだけど、「何を書くか」と「どう書くか」の組み合わせがありきたりだと、途端に陳腐な作品になってしまう

例えば、「カッコいいバトル漫画」を「スタイリッシュに描く」という組み合わせだと、あまりにも数が多すぎて、よっぽどずば抜けた画力があるとか、他の人にはない発想・アイデアがあるとか、そういう目立ったオリジナリティがない限り、「どこかで見たことがある」という既視感に繋がってしまう。

 

つまり、その人にしかない作家性というのは、「何を書くか(伝えたい内容)」と「どう書くか(伝え方)」を組み合わせるにあたって、他の作家にはない意外性が求められる。

 

例えば、つくしあきひと先生の「メイドインアビス」は、「ドキドキハラハラしたり、時にゾッと背筋が凍るようなファンタジー漫画」を「とても可愛らしいチビキャラで描く」という手法を取っている。つまり、「ゾッとするようなグロテスクな物語」を「可愛らしい絵柄で描く」という点に意外性があり、まさに「ありそうでなかった」という作品なのだ。ここにつくしあきひと先生の作家性が現れている。

もし仮に、「ゾッとするようなグロテスクな物語」を「リアルな絵柄でシリアスに描く」という組み合わせだった場合、そんな作品は世の中に腐るほどあるので、意外でもなんでもなく、「どこかで見たことのある作品」という印象になってしまっていたかもしれない。

 

ある意味で、つくしあきひと先生は、「どう書くか」によって作家性が無限に広がることを教えてくれる最高の教材だと僕は思っている。

 

自分の場合

じゃあ、自分はどうなんだろう・・・という話を最後にしたい。

 

僕は、初期の頃は「カッコいい能力バトル漫画」を「スタイリッシュに描く」という方針を取っていた。要するに、少年漫画を志す多くの漫画家志望者たちと同じことをやっていたのだ。しかし、それでは全く意外性がないし、伝え方の技術も絶望的に足りなかったため、僕は結構早い段階で「カッコいい能力バトル漫画」をやめることにした。どうせ僕じゃなくても、他の誰かが圧倒的に高い画力で描くからだ。

 

そんな多くの競合相手がひしめき合うレッドオーシャンで勝負しても仕方ないということで、僕は「伝えたい内容」から考え直すことにした。

 

それから1年以上の時が経ち、自分の中で「何を書くか」という点についてまとまりつつある。しかし、いまいち決まっていないのが、「どう書くか」である。今回の作品について、「伝えたい内容」と「伝え方」が一致しているか、冷静に振り返ってみたところ、正直あまりハマっていない感じがした。

 

この記事でも書いたとおり、今回の僕は「リアリティを追求した描き込みの多い絵柄」を目指したんだけど、そんなにリアリティが必要だったかと言われると大いに疑問だし、伝えたい内容的に言えば、もう少し「コミカルな部分」が必要だったように感じている。

 

そして、今回このブログ記事を書くにあたって、僕が気づいたこととしては、「伝え方」に絶対の正解はないということだ。

 

例えば、「カッコよさ」を伝えるのに、皆が芥見先生のような絵柄で描く必要はない。もしかしたら、もっと違う「カッコよさの伝え方」があるかもしれない。それこそ、つくしあきひと先生のように、「ゾッとするようなグロテスク展開」を「可愛い絵柄で描く」という方法だってあるわけだ。

 

そうだとしたら、僕の中にある「伝えたい内容」と一致する「伝え方」は、ひとつじゃない。いくらでも可能性はある。「こうじゃなきゃいけない」と思考をロックするのではなくて、その可能性をもっと模索していきたい。遠藤先生のように、僕にもバシッとハマる組み合わせがあると信じて。