箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

中村佑介氏の画集「NOW」に目を通しつつ、自分の絵柄について考えてみる。

燃え尽き症候群になってからというもの、「果たして僕は何が描きたいのだろうか」と再び自問自答を繰り返す日々が始まった。作品を描き終えると、僕には毎回この時間が訪れる。これは「僕は一体何者なのか」という問いに置換可能であり、僕にとっては禅問答の修行と同じである。

 

今日は「答え(自分?)」を探しに、ふらっと書店まで足を伸ばすことにした。僕は気分を変えたい時は決まって書店に行くことにしている。あそこは情報の集積地の装いをしつつ、実はマインドリセットのためのリラクゼーション施設だと僕は解釈している。とても落ち着く空間だ。

 

店内をフラフラと歩いていると、ふと中村佑介氏の画集「NOW」が目に止まる。瞬間的に「欲しい」と思ったので購入することにした。

 

 

僕は中村佑介氏の絵が昔から好きだ。

 

最初に氏の存在を知ったのは、アジカンの「崩壊アンプリファー」のCDジャケットの絵だったんだけど、この頬杖をついた女の子の絵が何だか無性に気になってしまった。

崩壊アンプリファー

崩壊アンプリファー

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別に感情を表に出しているわけでもなく、目もうつむき加減になっており感情が全く読めない。氏が描く人物イラストは、このように無表情で何を考えているのかよく分からないものが多く、正面を向いていない横顔のアングルも非常に多い。

 

でも、この感性はグサグサと僕の心に突き刺さった。いや「だからこそ」と言うべきか。中村氏の初画集「Blue」を発売日に購入したのもある種の必然だろう。

Blue

Blue

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サブカルチャーに触れる機会の多かった僕にとって、究極的に描きたいものは、こういう日常の瞬間を切り取ったような自然な人物像なのかもしれない。

 

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ちなみに、中村氏の描くキャラクターデザインは、現在の漫画のトレンドとは完全に逆行しており、漫画業界ではほとんど採用されることはない。

たぶん、氏と同じようなデザインを採用すると、編集者から「キャラが分かりづらい」とか、「もっと目を大きくして印象に残るようなデザインにしろ」とか、そういう風に言われるんだろうなーと思う。少なくとも少年誌だったら絶対にそうなる。

 

そんなことを考えていると、偶然にも僕の想像を裏付ける資料が見つかった。それが、少年マガジンで編集者をしていた石井徹さんという方の「マンガ最強の教科書」である。

 

パラッと立ち読みをした程度なので、何とも言えないが、よくある「漫画業界のトレンド分析本」であり、売れている漫画の傾向的なものを著者の経験と知見を交えて情報整理した本・・・という感じだと思う。

 

僕が気になったのは、著者が目の大きさについて言及している部分であり、「とにかく目は大きく描け」と石井氏は強調する。最近は目を小さく描く作家もいるが、三白眼のように瞳が小さいキャラは、デッサン的にもおかしいと指摘しているのが印象的だった(石井氏いわく、上まぶたで覆いかぶさるぐらいの大きさの瞳が良いらしい)

 

僕個人としては、そんなのケースバイケースだろうと言いたくなってしまうが、まあ要するに、これが商業漫画の常識である。中村佑介氏のようなデザインが採用されないのは、こういう意見を持っている編集者によって、漫画家の個性が矯正されていくからである。

(まあ、中村佑介氏の絵は真似したくても誰にも真似できないけどね)

 

売れるためのビジネス理論としては、石井氏の考え方は正しいと僕も思う。だけど、ジャンプ然り、「個性」とか「多様性」などと綺麗事を並べつつ、その裏で、目先の利益のために「これもダメ」「あれもダメ」と作家にNGを突きつけるダブルスタンダードを平気で言っている。どこまでいっても彼ら編集者は営利団体に雇われたビジネスマンなのだ。

 

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まあ、そんな恨み節を言っても仕方ないので、話を元に戻そう。

 

今回の作品を描き終えて、僕がふと感じたこととしては、僕が目指そうとしている作風や絵柄を改めて考えたときに、僕が参考にしてきた裏那先生の絵柄はちょっと違うんだろうなーと感じた。

 

何と言うか、裏那先生の絵柄は、目を大きく描くとか、そういう少年漫画っぽい部分もありつつ、かなりリアルな路線であり、陰影や質感を細かくラフな感じで描き込んでいく点に特徴がある。

この絵柄は、相当な画力(デッサン感覚)がないと成立しない。それが証拠に、僕のような画力の低い人間が、裏那先生の真似をしてラフな感じで線を入れると、めちゃくちゃ汚い絵になってしまう。文字通り「ラフ(粗い)」なのだ。僕の画力では到底無理だし、作風や絵柄にも合っていないことを悟った。

 

おそらく、裏那先生と同じ系統の作家さんの絵柄(細かい線を描き込んでリアリティを追求していくタイプ)は、裏那先生に限らず、全部僕に合っていないと思う。

例えば、「地獄楽」の賀来ゆうじ先生、「青の祓魔師」の加藤和恵先生、「ブルーロック」のノ村優介先生、最近で言えば「メダリスト」のつるまいかだ先生など。これらの先生たちの絵は、ラフな線でも綺麗に見せられる画力があって初めて成立している。

 

逆に、ハッキリとした線でパキパキと描く作家さんの絵柄(キャラクターの造形を記号化し、ある程度省略して描くタイプ)は、僕の方向性にも合っているように感じる。

例えば、「スパイファミリー」の遠藤達哉先生、「あかね噺」の馬上鷹将先生、「ダンダダン」の龍幸伸先生、あと純然たる少年誌ではないが、「生き残った6人によると」の山本和音先生など。

 

ちなみに、描き込みの量と緻密さで言えば、ヒロアカの堀越耕平先生は「リアリティを追求するタイプ」に分類されると思うけど、ハッキリとした線やベタを描く部分に関しては、堀越先生のキャラデザも相俟って、「キャラクターの造形を記号化して描くタイプ」だと思う。

 

なんていうか、今日中村佑介氏の画集をパラパラとめくりながら、僕は、リアリティを追求することよりも、キャラクターの印象を記号化することの方が自分に合っているのかもなーと思ったりした。

いや、「合っている」というか、そっちの方が「好き」というか。昨年は自身の画力アップのために、裏那先生のような画力タイプの作家さんの絵をめちゃくちゃ模写していたんだけど、僕が描きたいものとのミスマッチが起こっているように感じて、最終的にそれが違和感へと繋がっていった。今回の作品の総括として、「もっと線を綺麗に描こう」と反省したのもそれが理由だ。

 

 

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作品の方向性としては、今回の作品で少しだけ見つかった気がしていて、あとはそのイメージをどうやって表現するかが課題になっている。もし、この違和感を解消することができて、「自分が表現したいこと」と「その表現方法」がバシッと合わされば、もっと自分の理想に近づけると思う。

 

それこそ、「崩壊アンプリファー」のCDジャケットに描かれた女の子のように、誰かの心に刺さる日が来るかもしれない。