箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

イラストとモノクロ漫画の感覚の違いについて考えてみた。

こないだ、激しく共感するブログ記事を見かけた。

その人は普段イラストを描いている人らしいんだけど、その人がデジタルでモノクロ漫画を描こうとした時に、両者の決定的な相違点に気づいたという。

 

その人曰く、イラストというのは、色が主役であり、影やハイライトをどうやって付けていくかによって、絵の総合的な印象が決まるという。つまり、ちゃんと説得的に色が塗れているのであれば、線画は多少適当でも問題ない。

しかし、モノクロ漫画は、白と黒の2色しかないので、色塗りで印象を操作することはできず、白と黒のコントラストでほぼ印象は決まってしまう。ちなみに、中間色としてトーンが存在するが、中間色とは言ってもただの黒い点の集まりなので、多用し過ぎると画面が暗くなるだけであり、結局は白と黒のコントラストを意識せざるを得ない。

 

要するに、「中間の色合いを調整しながら絵の印象値を上げていく」のがイラストであり、「線や黒ベタといった白黒のコントラストを調整しながら絵の印象値を上げていく」のがモノクロ漫画なのだと、その人は結論づけていた。

 

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僕はこれを聞いた瞬間、カミナリに打たれたような衝撃を受けた。

 

いや、当たり前といえば当たり前の話だ。モノクロ漫画のことがよく分かっている人からすれば、「え・・・そんな当然のことを、おま・・何を言ってるんだ・・・?」って感じだと思うけど、イラスト感覚で絵を描いている人が、モノクロ漫画を描こうとすると、マジでこの感覚の違いを痛感する。

 

何と言うか、僕みたいにイラストから入った人は、線の内側にある「色」をどうにかしようという発想になってしまう。色というのは、明度(濃度)だけでなく、色合いや彩度も重要であり、いかにして影や光のグラデーションを表現しようかと頭を悩ませ、延々と色を重ねて絵全体の印象がどう変わるのかを模索するのがイラストなのだ。

しかし、この発想をモノクロ漫画に持ち込むと、「中間色であるトーンを使って絵の印象を操作しよう」という方向性になってしまう。モノクロ漫画では、色の代わりになるものはトーンだからだ。ところが、トーンはどこまで言ってもただの黒い点の集合体に過ぎず、使えば使うほど、絵がボンヤリとした印象になる。ただの黒い点の集まりなので、画面が暗くなってしまう上に、白と黒のコントラストがハッキリしなくなるのだ。

 

よく「デジタルで描いている人の線画は弱くなる(細くなる)傾向がある」と指摘されるんだけど、たぶんその背景には、こういった感覚の違いというか、絵の方向性の違いもあるんだと思う。

実際のところ、モノクロ漫画の絵を見ていると、ジャンプ系の作家さんは白と黒のコントラストがハッキリしていて、異世界ファンタジー系の作家さんはトーンを多用する傾向があるように感じる。これは、元からジャンプのようなモノクロ漫画を見て育った人か、それともカラーイラストを好んで描いていた人かの違いのような気もしている。

 

僕は、漫画を読んで育ったんだけど、絵を描き始めた時にイラストの勉強からスタートしたため、ラフ・下書き→線画→基本彩色→影塗り→ハイライト→仕上げ・・・みたいな作業工程が頭に染み付いていて、そのせいで線画がやたらと細く、白黒のコントラストが弱いという弱点がある。線やベタではなく、中間色(トーン)と描き込みでどうにかしようという発想になっちゃうからだ。

 

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ところかわって、最近とある作家さんの絵をよく見るようになった。その作家さんとは「3月のライオン」を連載されている羽海野チカ先生の絵である。

 

僕は以前、Pinterestで凄く良いなーと感じる絵を見かけたことがあって、「この絵をどこかで見たことがあるような気がする・・・」という既視感を感じつつも、結局誰の絵なのかが分からず、そのまま時が流れてしまった。

しかし、最近「3月のライオン」を見返していた時に、以前Pinterestで見かけた絵が出てきて、思わず「これだー!」と心の中で叫んでいた。その正体は「3月のライオン」の扉絵だったのだ。どうりで既視感に襲われるはずだ。だって何回も読み返している作品だもの。

 

羽海野チカ先生の絵(特に背景)は、「記号化(デフォルメ)して描く」「あまり直線を使わず、フリーハンドで描くことが多い」といった特徴がある。その中でも僕が一番目を奪われるのは、白と黒のコントラストのつくり方だ。おそらく、漫画家の中でも、かなりハッキリとした線を描くタイプの作家さんであり、絵がパキッとしている印象を受ける。現在の少年漫画で言えば、「あかね噺」の作画を担当されている馬上鷹将先生の絵が似ているように思う。

 

なんていうか、羽海野先生の絵は、「ここが黒!」「ここが白!」という棲み分けがハッキリとしていて、線がちゃんと主張しているうえに、思い切ってベタにしちゃうところはベタにする・・という割り切りがあるように感じる。

例えば、背景の絵を見ていると、「僕だったらトーンで表現するだろうな」という部分でも、羽海野先生はベタを塗って処理していることが多い。要するに、有耶無耶にせずに、「ここは黒の領域!」と割り切っているのだ。羽海野先生の性格(?)が出ている気がする。

 

これは、デッサン感覚とはまた違うモノクロ漫画ならではの感覚であり、デッサンに忠実に描くなら、トーン(あるいはカケアミ・ハッチング)で表現する方が正しい場合が多いと思うけど、モノクロ漫画では、そういったデッサンを無視して、「本当は違うけど、敢えて黒ベタで表現しよう」という割り切りが求められると僕は思っている。そうやって、白と黒の量を調整し、絵全体の印象を操作していくわけだ。

(そもそも、モノの輪郭線や境界線を描いている時点で現実とは違うわけだし)

 

その感覚を極限まで突き詰めていくと、久正人先生のような絵柄になるんだろうなーという気がする。

ノブナガン 1 (アース・スターコミックス)

ノブナガン 1 (アース・スターコミックス)

  • 作者:久 正人
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つまり、ここまでの話をまとめると、「色塗りで印象を操作すれば良いので、線画は程々でも良い」というイラスト思考を捨てて、「線画とベタでほぼ絵の印象は決まる」というモノクロ漫画思考にシフトする必要があると感じている。実際、その意識が弱いせいで、僕が描く線画は本当に弱々しい。

 

また、「デッサンに忠実に描く」という思考も邪魔であり、この意識が強すぎるせいで、「白と黒のどちらでもない領域をトーンで表現しよう」という発想になってしまう。トーンを塗って有耶無耶にしようとするせいで、絵全体の印象がボンヤリとしてしまうわけだ。そうではなく、基本的には「白か黒のどちらか」という意識を持ち、コントラストをハッキリさせなければならない。

(服の柄とか、白黒の境界線にどうしても中間色を置きたいとか、演出的にどうしても必要という場合のみトーンを使う)

 

まあ、そんなことを言いつつ、本当に画力の高い人は、トーンを上手に使うし、イラストみたいにリアルな絵を描ける人もたくさんいる。つまり、本当の原因を言ってしまえば、僕が下手なだけだ。

ただ、自分に合った描き方があるような気がしていて、それがイラストとモノクロ漫画の感覚の違いに求めることが出来るような気もしている。

 

一歩ずつ。一歩ずつ。自分の絵を見直していきたい。