箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

少年漫画における「記号」とは何か。

今日は、僕が直面している悩みと、少しだけ悩みが晴れた部分をちょこちょこと書いていく。

 

僕は、全ての漫画の中で、圧倒的に少年漫画が一番難しいと思っている。なぜなら、少年漫画では、分かりやすさが求められている一方で、分かりやすさを追求しようとすると表現が陳腐化し、「どこかで見たことがある」という絵や展開になってしまうからだ。

 

順を追って説明する。

 

例えば、主人公がめちゃくちゃ引っ込み思案な性格だとしたら、少年漫画においては、引っ込み思案であることが分かる「何か」を絵やセリフの中に入れなければならない。いつも表情がオドオドしているとか、他人との会話がシドロモドロになるとか、クラスでいつも孤立しているとか、そういう「分かりやすい絵」を入れることで、キャラと読者の距離が近づき、「ああ、コイツはそういう奴なのね」と理解することが可能になる。

 

そして、その「分かりやすい絵」というのは、偉大な先人たちが築き上げてきたノウハウの上に成り立っており、「こういう風に表現すれば、一発で読者に伝わる」という答えらしきものが既に存在している。

ビックリしているのであれば、目玉が飛び出したり、顎が外れた表情(いわゆる「ガビーン」という表情)をさせるとか、悔しさを滲ませるのであれば、壁にドンと拳を突き立てて、壁にもたれ掛かるようにして何かセリフを吐かせるとか。漫画に限らず、映画とかアニメでも見かける「定番の演出」がまさにそれだ。

 

このようにして、「分かりやすい絵」というのは、長年にわたる研究の中で、既に「記号化」されており、我々はその「記号」を使って、作品を分かりやすくしている・・・と言える。

 

さらに言うと、この「記号」は、もはや我々の意識の中で常識化しているので、無意識のうちにポロッと自然に出てきてしまう。さっきも言ったとおり、「ガビーン」とか「壁ドン」を普通に使っちゃうわけだ。そうすると、それを見た読者は、同じ記号を使っている作品を連想し、「あの作品っぽい」とか、そういう印象を抱くに至る。「どこかで見たことがある」という既視感の正体はそれである。決してそういうものが面白くないと言ってるわけでは無いが、少なくとも目新しさはない。

 

つまり、少し大袈裟な言い方をすると、少年漫画では、既に存在する記号に縛られずに、新たな記号を作ることが求められている。だから難しいのだ。

 

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控えめに言って、新しい記号を作れる人は天才だと思う。一番最初に「ガビーン」という表情と音を発明した人は間違いなく天賦の才を持っている方だ。

 

はっきり言って、僕にはそのセンスは無い。既に存在する記号の域を出ない。数日前から描き始めたネームについても、例に漏れず偉大な先人たちが発明した記号が無意識に出てきてしまい、「この表情は◯◯先生っぽいなー」とか、「このポーズは△△先生と同じだなー」とか、そういうことを感じてしまった。それぐらい記号が持つ影響力は凄まじいのだ。

 

僕は、ここ数日間にわたり、「少年漫画っぽさ」というものを意識してネームに取り掛かってみたんだけど、この意識のせいで、どうしても既存の少年漫画の記号に引っ張られ、同じところをグルグルと堂々巡りする地獄にハマってしまっていた。

 

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そこで今日は気分転換をしようと思い、近所にあるカフェに足を運ぶことにした。

 

以前からこのカフェの存在は知っていたものの、車では行きづらい場所にあるせいで、今までずっと敬遠してきたが、妻と相談して、散歩がてら歩いて行ってみようという話になったのだ。

 

カフェに到着して僕は驚いた。周辺が少しだけ森のようになっていて、カフェ自体も古い民家をリノベーションして作られており、インテリアもセンスの良い小物・雑貨にあふれていた。まるでオシャレな魔法使いが暮らしているような家だなーと僕は感じた。

そうすると、新しい物語のアイデアがふわふわと頭に思い浮かんできて、カフェでコーヒーを啜りながら、そのアイデアを膨らませていた。間違いなく、そのカフェは僕の創作意欲を刺激したのだ。

 

そのときにふと思った。「いや、少年漫画っぽさって何だよ」って。

 

考えてみれば、今の少年漫画は、先人たちが築き上げてきた記号の集合体であり、時代によって流行り廃りはあるものの、別にこうしなければならないという決まりはない。偉大な先人たちが、自分の描きたいものを突き詰めていった結果、「自分だけの記号」を発見し、それがメジャー化していったというだけだ。

つまり、「少年漫画っぽさ」からスタートすれば、既存の記号に引っ張られて、「どこかで見たことのある作品」になってしまうのは当たり前である。「自分だけの記号」を探さずに、「他人が考えた記号」に頼っているわけだから。

 

僕は、アイデアがふわふわと頭に思い浮かんできたとき、「自分だけの記号」は「自分の創作アンテナがビビッと反応したもの」の先にしか存在しないことを悟った。もちろん、いきなりオリジナル記号を生み出すことは出来ないかもしれないが、少なくとも「その人らしさ」は出る。作品が持っている雰囲気とか、キャラの風貌とか、セリフ選びとか。その道の先にある壁を壊し、「自分だけの記号」という宝を手に入れるしかないのだ。

 

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カフェでアイデアが思い浮かんだぐらいで何を言ってるんだって感じだけど、それぐらいメンタルがずっと不安定であり、創作のモチベーションもグラグラと揺らぎまくっていた。一喜一憂が激しい。正直に言うと「逃げてしまいたい」という気持ちもある。

 

だけど、僕の人生において、仮にそれが本業だろうと趣味だろうと、「作品を描く」ということからは逃げられない。自分という人間からは逃げられないのと同じように、この先も、ずーっと僕の創作活動は続いていくのだ。

それに、もしここで逃げてしまったら、この先も一生後悔すると思う。「これまでの人生と同じように、あの時も逃げたな」って。「逃げずにちゃんと戦えば良かったな」って。年老いて、満足に創作も出来なくなった時に、たぶん僕は自分の人生をそうやって述懐するはずだ。そこだけは確信を持って言える。

 

というか、前もブログで書いたけど、僕は自分が納得したいから描いているのであって、誰かの評価のために描いているわけではない。「自分が納得できたもの」が読者に刺さったのであれば、そのまま商業でやり続ければ良いし、刺さらないのであれば、場所を変えれば良い。それだけの話である。創作活動は自由であって良いと僕は思う。だから、過度に自分を縛る必要はない。好き勝手にやろう。

 

今日はそんなことをツラツラと考えていた。