箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

次のネーム作業に向けて意識すべきことを再整理する。

そろそろネーム作業を本格化させたいので、5月の充電期間中に考えていたことと、作品の講評を踏まえながら、「ここを意識して描く」という部分を再度整理したいと思う。

 

前回の作品のときに意識していたこととしてはこんな感じ。

 

まず、ネームに限って言うなら、僕は以下の点に絞ってネーム作業に取り掛かっていた。

  • 読み切り漫画については「起承転結」や「構成」を考えてはいけない(ストーリー思考を捨てる)。
  • 印象的で面白い絵になる展開を考える。
  • 基本的にキャラ(表情・ポーズ)は大きく描く(コマの大きさにメリハリをつける)。
  • 顔マンガを描かない。主人公の意志で局面を動かす。
  • 展開がありきたりだと思ったら少しズラす。

 

ちなみに、ここには書いていないが、キャラクターについては、とにかく性格を分かりやすく誇張することが大事だと思っていて、例えば、「めちゃくちゃケチな奴」とか、「めちゃくちゃ短気な奴」というように、「めちゃくちゃ◯◯な奴」という肩書をつけるように意識していた。

そうすると、自然とキャラの行動も見えてきて、「コイツだったら、この局面でこんな行動を起こしそう」というのも分かりやすくなるし、そのキャラの反対属性(内面的な弱点)も考えやすくなるので、各局面におけるキャラの行動も捉えやすくなる。いわゆる「キャラが勝手に動く」というやつだ。

 

とりあえず、前回僕が考えていたのはそんな感じだった。

 

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しかし、これだけでは足りないということも分かってきたので、僕に足りていない視点を追加していく。

 

まず、キャラの属性・性格・容姿(デザイン)はよく練られていたと思うし、その部分に関しては、特にマイナス評価も受けていない。むしろ、「よく描けている」とさえ言って頂けた。ただし、せっかく魅力的なキャラなのに、肝心の目的の部分が読者に上手く伝わっておらず、「キャラと読者の距離が遠い」という厳しいネガティブ意見も寄せられている。

 

この点に関して、僕には3つの視点が足りなかったと分析している。

 

まず、「印象的で面白い絵になる展開を考える」という要素に関して言うと、この考え方自体は別に間違っていないと思うが、僕はキャラの意外な一面が垣間見えたり、キャラの面白いリアクションが発生するなら、それは偶然の出来事でも良いし、キャラの周辺で起こる出来事でも良いと当初は考えていた。

しかし、講評を拝見している感じだと、そういうものは偶然の出来事であってはならず、「キャラが主体的・能動的に行動した結果、そういう出来事が発生した」という因果関係が存在しなければならない・・・ということを痛感した。

 

つまり、たとえキャラの面白いリアクションが描けていたとしても、キャラが主体的に行動を起こした結果として生じた出来事でなければ、それは単なる偶然の産物に過ぎず、極端なことを言えば、「そのキャラじゃなくても良いじゃん」という結論になってしまう。これでは読者は完全に感情移入はできない。

要するに、「印象的で面白い絵になる展開」というのは、必ず「キャラの主体的な行動」と「それに伴うリアクション」がセットになっていなければならない。そのキャラがそういう行動を起こしたから、結果としてそうなった・・・という因果関係が必要になるわけだ。この因果関係があるから、そのキャラでなければダメな理由が生まれ、そのキャラに対する愛着も生まれる。

 

ちなみに、僕は「主人公の意志で局面を動かす」という点も意識していたものの、なぜこの意識が上手く機能しなかったのか、次の項目で説明する。

 

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もうひとつ僕に足りていなかったものは、「どのキャラの視点に立つか」「どのキャラの内面を掘り下げたいのか」という、キャラ視点の絞り込みだと感じている。

 

今回の作品には、2人の主要キャラクターが出てくるんだけど、2人の関係性にフォーカスを当てたいと思ってしまい、キャラ視点があっちに行ったり、こっちに行ったり、バラバラになってしまっていた。その結果、読者からすれば、どのキャラに感情移入すれば良いのかが分からなくなってしまい、物足りない感じになっていたんだと思う。

 

僕は、今までの人生で圧倒的に映画の摂取量が多いんだけど、映画は漫画と違って、登場人物が自身の胸の内をベラベラと語るわけではない。どちらかといえば、モノローグよりもダイアローグの方が多い傾向にある(映画のジャンルにもよるけど)。そういうものをたくさん観てきた弊害として、僕には登場人物を客観的に描こうとするクセがある。

そうすると、キャラが主観的に描かれず、視点があやふやになってしまう。「主人公の意志で局面を動かす」という意識を持ちながらも、キャラが主体的ではなかったり、視点がフラフラと流動してしまうのも、実はここに原因があると僕は思っていて、「2人の関係性が何となく分かれば良い」と思ってしまっているのもそれが理由だし、偶然の出来事を発生させて、面白いリアクションや意外な一面を見せようとするのもそれが理由である。

 

しかし、それでは、読者はどのキャラに心を重ね合わせれば良いのか分からないし、ひたすら「向こうの方でなんかやってる」という他人事のような感じになってしまう。そうではなく、内面を掘り下げたいキャラを決めて、そのキャラの視点からストーリーを展開させていく必要がある。局面を動かすメインキャラを1人に絞り、そのキャラに魅力的な行動を取らせるという感じだ。そうすれば、読者は「そのキャラが主人公なのね」「じゃあ、コイツに心を重ねればいいのね」と作品世界に入り込みやすくなる。

 

ここまでをまとめると、まずは主人公の視点を1人に定めて、基本的にはこの主人公の内面を掘り下げていく。また、主人公の相棒とかライバルみたいなメインキャラはもう1人居てもいいし、そのキャラの人間性も見せる必要があるが、必ず主人公が主体的・能動的に行動を起こし、物語の局面を動かしていかなければならない。その結果として、キャラが面白いリアクションを取ったり、「印象的で面白い絵になる展開」が生まれ、最終的に主人公自身や、主人公を取り巻く環境・人間関係に変化が起きる。これがドラマである。

 

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最後にもうひとつ。僕に足りていないものが「分かりやすさ」だ。

 

 

先日このブログでも書いたとおり、特に少年漫画においては「記号」が求められていると感じる。そのキャラの感情や動機が伝わるような演出というか、分かりやすい絵というか、読者がパッと見た瞬間に、思わずキャラに心を重ね合わせてしまうような親しみやすい表現とでも言えば良いだろうか。

 

僕にはまだまだこの意識が足りず、どうしても「上手い絵を描こう」と思ってしまう。もちろん漫画には絵の上手さも必要だけれども、心に響く絵というのは単純な上手さを超越した「何か」があると思っていて、荒木先生の独特の擬音・ワードチョイスとか、堀越先生の感情豊かな表情とか、第一線で活躍されているプロの漫画家の先生の作品には、キャラに興味を持ってもらうための工夫が凝らされていると感じる。

例えば、臼井儀人先生が描く野原しんのすけの笑顔なんかもそうだ。ニヤリと口角を釣り上げて笑っているしんちゃんの表情を見ていると、野原しんのすけというキャラクターの個性がよく分かる。これも臼井先生が生み出した一種の記号である。このように、読者に伝わる「記号」というのは、別に絵の上手さと関係がない。

 

もちろん、その表現方法は種々様々あって良いし、僕なりの表現で構わないし、完全なオリジナルじゃなくても良いんだけど、いずれにせよ、そういう「分かりやすい自分なりの記号」を生み出していく必要がある。そういう記号を通して、キャラの分かりやすさというものをもっと追求していかなければならない。

 

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とりあえず、僕が感じた反省点はそんな感じ。前回の作品でフォーカスした部分と、今回反省した部分とをうまく掛け合わせ、次の作品に取り掛かっていこうと思う。