箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

「成長しない自分に飽きたのだ」というウメハラさんの言葉を噛みしめる。

僕は、少し前に絵柄がコロコロ変わってしまうという話を取り上げた。

けど、最近になって考え方が変わってきたので、改めてこの話題について触れたい。

 

pochitto.hatenablog.com

 

僕は、この状態をどうにかしたいとずーっと思っていて、絵柄や作風をひとつに絞りきれない自分を「優柔不断」だと断じてきた。また、純粋にひとつのことをやり続けている人を羨ましいと思っており、周囲の目を気にすることなく、創作活動に没頭できるものを見つけたいというか、「よし、俺はこの方向でいくぜ」っていう目標が欲しいと思ってきた。

 

だからこそ、自分の中にあるはずの「描きたい」という感情が見つからない現実に辟易としていたし、もっと言うなら、創作活動そのものに対する「飽き」を感じることさえあった。今の自分の状態はそんな感じだと思う。

 

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だけど、慶応大学で開催された梅原大吾さんの講演会の内容がふと頭をよぎり、その言葉が何度も頭の中を駆け巡って、僕は自分の考え方を改めることになる。

 

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それは何かというと、梅原さんの友人の中に、「ゲームに飽きたから」という理由で格ゲーから身を引いてしまった人がいたのだけど、梅原さんはその友人に対してこう思ったという。

 

「違う。お前はゲームに飽きたのではなく、成長しない自分に飽きたのだ」と。

 

この講演を初めてYoutubeで見たときは、正直あまりピンと来ておらず、「ゲームそのものに飽きることだってあるはずだ」と、梅原さんの主張に対して反駁を加えている自分もいた。しかし、この言葉を振り返った時に、僕は梅原さんが言いたかったことが多少なりとも分かるようになったし、今だったら素直に受け止められる。

 

僕が初心者だった頃、当たり前だけど自分の方向性は見つかっていなかったし、絵柄や作風をひとつに絞りきれていたわけでもなかった。じゃあ、創作活動が面白くなかったのかと言うと、全くそんなことはなく、毎日のように何か新しいことを発見して成長していく自分が楽しくて仕方なかった。たぶん僕だけじゃなく、他の人もきっと同じはずだ。梅原さんの言うように、面白い・楽しいと思っている対象は「成長」だった。

 

しかし、ある程度上手くなってきた僕は「成長」や「変化」を求めるのではなく、自分の中にある普遍的なテーマを追い求め、そこに自分を「固定」しようとするようになった。そりゃ成長を追い求めずに同じことを繰り返そうとしているのだから面白くないに決まっている。やっていることが真逆だからだ。僕はとんだ勘違いをしていた。

 

梅原さんは言う。成長を実感する事さえ出来れば、人間というのは飽きないし、飽きないから前向きに努力を積み重ねることも出来る。そして、いつかその成果が出る日が来ると。

 

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僕は梅原さんの言葉を反芻しながら、少しだけ自分のことが分かったような気がした。

 

例えば、ネット界隈では、同じ作品の二次創作を続けている人とか、同じようなイラストを長年にわたってずーっと描き続けている人もたくさんいる。大変失礼ながら、(僕の目には)何の変化もないように見えるんだけど、その人たちは「◯◯を描いている瞬間が楽しい」とか「□□というキャラクターが好き」という特定の性癖(フェチ)を持っている人たちであって、その性癖を追求することを楽しいと感じるタイプなんだと思う。

 

他方、僕はそういうピンポイントな性癖(フェチ)を持っているわけではない。毎回自分の中で新しいチャレンジ課題を見つけ、今までやったことのなかった表現に挑戦することに喜びを見出すタイプの人間だった。「新たにこんなことが出来るようになって楽しい」と。新しいことに目移りしてしまうのも、優柔不断とか、飽きやすいとか、もちろんそういう性格の問題もあるけども、そうじゃなくて、ただ単に「新しいこと」に惹かれているだけなのだ。

 

つまり、いくらそういう性癖(フェチ)を持っている人たち(絵柄や作風をひとつに絞り、それをひたすら続けている人たち)のことを羨ましいと思ったところで、そもそも楽しいと思っていることの対象が違うのだ。

 

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でも、じゃあどうすんのって話なんだけども。

 

僕は特定の性癖(フェチ)を持っていないから、特定のジャンルを描き続けるとか、そういうものが無いってことは分かった。でも、だからと言って、このまま変化(成長)し続けるのが正解かと言われると、それもよく分からない。「結局のところ、あなたは何を描いている人なんですか?」と問われた時に、僕は明確に返答できるものがない。「うーん。よく分かりません。毎日思いついたものを描いています」と曖昧な回答に終始することになる。

 

先程、同じことをずーっと続けている人たちについて、「何の変化もないように見える」と僕は言ったけど、それはあくまでも僕にはそう見えるというだけであり、その人達の中では、大なり小なり変化は起きているんだと思う。「これまではA×Bというカップリングを描いてきたけど、今度からはA×Cを描こう」とか。その性癖を持っている人にしか分からない変化は必ずある。そうでなければ、梅原理論によると途中で飽きることになる。

 

そして、その変化の先に、その人の個性とか作家性というものが生まれる。最初から「よしこの方向でいくぞ」という明確なものが存在しているわけではない。例えば、イラストレーターのさいとうなおき先生も、昔と今とでは絵柄が全然違う。写実的な絵を描いてみたり、漫画を描いてみたり、色々と自分を変化させていく中で、今のデフォルメ調の美少女イラストに行き着いたわけだ。

 

ということは、僕が直面している問題は、「この先どういう変化を楽しみたいのか」という問題に置き換えることができる。

 

そういう目線で見た時に、僕が本当に続けたいものは漫画なのかと言われると、正直よく分からない。というか、部分的に言うなら違うと思う。

漫画はどこまでいってもストーリーであり人間ドラマだ。「人間のどういう一面を読者に対して見せたいのか」ということが作家には問われている。もちろん、作画という点でも変化は生じるのだけど、基本的には「お話の内容」や「キャラクター」を深掘っていくことになる。「人間のネガティブなところをもっと表現できるようになりたい」とか、「可愛らしい10代の女の子のキラキラとした内面を読者に伝えたい」とか。漫画は、ストーリーを通じて、キャラクターをどう表現するのかという問題であり、そういう変化を楽しめるのかどうかが分水嶺と言える。

 

…で、正直に言っちゃうと、ぶっちゃけ僕はあまり興味がない。少なくともストーリー漫画については何の適性も無いと思う。今の商業漫画を読んでいても、「自分もこういうキャラクターが描けるようになりたい」と思うことはない。他人と違うことをやりたいとか、もっと違う表現がしたいとか、「新しさ」ばかりを追い求めてしまって、結果として「よく分からない」という感想に繋がってしまう。

共感されるストーリーを描こう、キャラクターを掘り下げようと思って、ずーっともがいてきたけど、それが出来なかったのだから、たぶん間違いない。僕は、人間を掘り下げたいのではなく、他人とは違うカッコいい表現を目指したいのだ。「キャラクターの細やかな感情の機微が表現できるようになって楽しい!」といった変化の楽しみ方は僕には出来そうにない。

 

もし漫画を描くとしたら、人間ドラマではなく、ギャグに振り切った作品か、あるいは、趣味のことを描くとか、日常生活で起こったあるあるネタとか、「人間のことを掘り下げる必要のないもの」だったらワンチャン描けるかもしれない。

けど、それを描いていく中で、どういう変化を楽しめるのかは良く分からない。特に、趣味漫画やあるあるネタについては、ネタが思いついている間は良いかもしれないが、それこそネタが切れた時に変化(成長)を感じられなくなって途中で飽きると思う。何となく想像がつく。

 

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もしかすると、そのうち描きたいストーリーやキャラクターが見つかって、「その漫画を描きたい!」と思う日が来るのかもしれないけど、今のところそれはなく、僕がこの先成長したい(変化させたい)と思っているものは、単純に「絵そのもの」であり、それ以外に無いと思う。僕は自分の理想の絵を追求したいだけだ。

 

…で、特定の性癖(フェチ)と呼べるものは現時点で見つかっていないけど、これまでの傾向や好みからいって、僕が追求したいのは「ポップさ」とか「カッコよさ」かなと感じている。僕の胸がトキメクのはそういう部分であり、強いて言うなら、僕の性癖(フェチ)はそっちの方向にある気がしている。

 

それを見つけるために絵を描き、成長を感じながら努力を重ね、どういう形に結びつくか分からないけれど、いずれそれを結実させる…ということかなぁと。その過程で、ある程度絵柄や作風が変わってしまうのはやむを得ない。僕はそういう変化も含めて楽しんでいきたい。今はそういう風に考え方が変わった。