箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

「世界の広さ」の観点から見るオープンワールド論

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 久しぶりにゲーム関連の記事です。 

 最近、ゲーム界隈でひとつのキーワードとなっている「オープンワールド」をめぐって、「世界の広さ」ってなんだろう的な記事をふと書きたくなったので、好き勝手に私の考えるオープンワールド論を書いてみたいと思います。

 

限定的な行動範囲の中で「世界は狭い」と感じるか。

 私は、実家で猫を飼っていました。名前を「ダイスケ」と言います。

 生まれたての子猫の頃からダイスケを実家に引き取り、そのまま成長し、年老いて死んでしまったので、ダイスケは「外の世界」を知りません。外飼いではなかったですし、どこかに連れ出すこともほぼなかったので。

 ダイスケにとって、私の実家が世界の全てだったんだろうと想像すると、何とも言えない気持ちになります。私の実家の外には、私たち人間ですら想像も及ばないような広大な世界が広がっているにもかかわらず、ダイスケはそれを露にも知らずに、一生を終えたのです。

 

 では、ダイスケが、自分が生きている世界を「狭い」と思っていたのか、それとも「広い」と思っていたのか。もちろん、その気持ちを正確に推し量ることは叶いませんが、たぶん、どっちでもなかったと想像します。以下、その理由です。

 例えば、自分の幼少の頃を少し思い返してみてください。幼少期は、自分の足で遠くまで行くことはできないし、親が同伴しなければ、電車などの交通機関を利用して遠方の土地を訪れることもできません。行動範囲で言えば、せいぜい自分が住んでいる地元の街ぐらいが限度だったんじゃないでしょうか(子どもの頃から、世界を転々とするような生活をしていた人もいるかもしれませんが…)。

 それだけ限定的な行動範囲の中で生きていくことを強いられていながら、「この世界は狭いなぁ」と思う瞬間なんてなかったと思います。少なくとも私は、そんなことを思ったことはないです。いや、そもそも「世界は広いか、狭いか」などというテーマが頭をかすめることすらなかったです。はい。

 

 それは、世界の大きさを知らない子どもだからであって、経験や知識が圧倒的に不足していたからに他なりません。だとすれば、「世界を狭いと思うか、広いと思うか」という判断基準は、実際の行動範囲の広狭に左右されるのではなく、経験や知見に基づいて世界の大きさを推測できるかどうかに左右されるのだと思うのです

 その証拠に、私たち大人の行動範囲もそれなりに限定的であるにもかかわらず(極端な話を言えば、家と会社を往復するだけの生活を送っている人もいると思います)、私たち大人は、「世界が狭い」と思うことはないと思います。普段降りることのない駅には知らない道があり、会社と反対方向に進めば知らない店があるというように、まだ見たことのない風景がこの世界に存在することを知っており、自分の行動範囲が「世界のほんの一部分」であることを、これまでの人生経験や知識をもとにして理解しているからです。

 

世界の広さは「想像」する(させる)ものである。

 昔プレイしていたFF7を例に取ります。

 あのゲームは、冒頭において、「ミッドガル」という街を舞台にして物語が進んでいきます。プレイヤーの行動範囲は実に限定的です。その後、ある程度物語が進むと、ミッドガルを脱出するイベントが発生し、ただっぴろい荒野に放り出されるのですが、このとき、プレイヤーは初めて、ミッドガルの外に広大な世界が広がっているということを知ります

 

 私は、これまでゲームをプレイしていて、あの時ほど、ゲームの世界が「広い」と感じたことはありません。なぜ、あのとき、「世界は広い」と感じたのか。冷静に考えてみますと、その理由が分かる気がします。

 まず、プレイヤーは、最初の数時間のプレイにより、ミッドガルが世界の全てであると頭に刷り込まれます。ミッドガルには色んな街やダンジョンがあり、色んなイベントが起こるので、ミッドガルが世界の全てであると言われても疑う余地がないのです。そのぐらいミッドガルはよく作り込まれています。

 そして、ある程度ミッドガルを体験させたあとに、「じつは、ミッドガルは世界の一部でした」と種明かしをすることにより、これまでプレイヤーが考えていた世界の広さの概念が破壊され、プレイヤーの中で、世界観を再構築する必要性が生じます。しかも、このとき、プレイヤーをただっぴろい荒野に放り出すことにより、プレイヤーの想像力を掻き立たせています。

 

 この演出は秀逸と言いますか、世界の広さのインパクトを与えるにあたって最も効果的な手法だったと思います。想像したところで、その広さがはっきりと分からないからです。固定概念が破壊され、想像の及ばないものに直面したときに、人間はこれまで体験したこともないような衝撃を目の当たりにするんだと思うのです。

 私の実家が世界の全てであると思い込んでいたダイスケが、「実は、私の実家は世界のほんの一部で、実家の外には想像できないような広大な世界が広がっている」という事実を知れば、おそらくとてつもない衝撃を抱いたのではないかと想像します。

 

オープンワールドは矛盾している。

 そう考えていきますと、私には、少なくとも「世界の広さ」をプレイヤーに印象付ける点に限って言うならば、オープンワールドは矛盾しているように思います。だって、最初から、世界の大きさの限界をプレイヤーに教えているからです。

 「大体このぐらいの大きさです」と種明かしをされている状態でプレイをして、本当にそのぐらいの大きさだったとしたら、どこに驚きや衝撃が生まれるでしょうか。最初は驚きの連続かもしれませんが、世界の広さの限界が分かっているプレイヤーからすれば、その驚きが延々と増していくことはありません。

 

 私にとって、FF15がまさにそんな感じでした。

 最初は、美麗な風景に心奪われ、これからどんな冒険が待っているのだろうと心を躍らせますが、車を走らせども走らせども、見えてくる風景はガソリンスタンドと荒野ばかりで、街と呼べる場所はほんのわずか。これがずっと続くのか?と思っていたら、本当にそれが続いたので、当初想像したとおりの世界がそこにあったというだけで終わっています。

 そう考えますと、「世界の広さ」をプレイヤーに突き付けるためのレトリックとして、オープンワールドという手法は違うんだろうなぁーと。あくまでも、プレイヤーの行動の自由を担保するためのシステムに終始しているように思えます。

 

世界の広さを想像させる工夫を。

 もし、オープンワールドという形式をとりつつ、世界の広さをプレイヤーに印象付けたいのであれば、繰り返しになりますが、プレイヤーに「想像」させる必要があると思うのです。

 例えば、全体マップを明かさないままゲームを進行させるとか、全体マップだと思っていたワールドが実は世界の一部で、もっと広大な世界が広がっているとプレイヤーに気づかせるとか。ウィッチャー3をプレイしていて、ホワイトオーチャードが世界の全てだと思っていたら、実は、スケリッジ諸島とかノヴィグラドとか他にもマップがあると知ったら、「え、そうだったの!?」って普通に驚くと思うんですよね。

 

 今回は、オープンワールドにおける「世界の広さ」だけに焦点を絞りましたので、「いや、そうじゃなくて密度の問題なんだよ」とか、「違う違う。広さじゃなくて自由度の問題なんだよ」といった意見もあると思います。

 ただ、個人的には、ゲームへの没入感って、非日常を感じられる部分、すなわち「ただっぴろい世界を旅してみたい」という欲求の充足にあると思っているので、オープンワールドを開発する側には、「家と会社を往復するだけの日々に退屈してんだろ?いつもは降りない駅に降り立つ体験をさせてやるよ」と言って欲しいのです。ダイスケが見ることのなかった風景を目の当たりにするが如くに。

 最近のオープンワールドに対してはそんなことを思っています。