箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

都心で暮らしている人との時間感覚の違い

僕は以前に東京の多摩地方に住んでいたことがあった。

 

僕が住んでいた街は、奥多摩まで車で1時間ぐらいで行ける距離であり、夏になると奥多摩までバーっと車を走らせて、鍾乳洞に行ったり、川で涼んだり、渓谷の景観を楽しんだりしていた。

ちなみに、その時住んでいたアパートの隣の部屋に、50代ぐらいの仲の良さそうな御夫婦が住んでいて、その御夫婦は週末になると必ずアウトドアに出かけていた(玄関先にキャンプグッズっぽいものがたくさん置いてあった)。今から思い返すと、あそこらへんの地域は、アウトドアが好きな人にはうってつけの街だったんだろうと思う。

 

あるとき、そのことを都心で暮らしている友人に話したことがあったんだけど、その友人は「へー、そんなに時間が掛かるんだ」と言った。その反応から察するに、「車で1時間」というのは、その友人にとって「遠い」という感覚らしい。

僕はこの友人の反応がとても印象的だった。何というか、都心で暮らしている人との時間感覚の違いを感じたからだ(その友人が変わっているだけかもしれないけど)。

 

例えば、以前取り上げたこちらの記事。

pochitto.hatenablog.com

 

この記事の中に、徒歩30分の距離にあるコンビニに通っている人の話が出てくるんだけど、たぶん、僕の友人にこの話をすれば、「徒歩30分」は「遠い」と答えると思う。

 

その友人が「時間に追われている人」と言いたいわけではないけど、都心で暮らしていて、きっちりと時間管理されている中で日々働き、毎日のように誰かと会って、ゴリゴリと自分の時間を削られているような生活をしていると、時間の感じ方は自ずと変わってくるんだろうと思う。

 

少なくとも、僕が感じる「1時間」と、その友人が感じる「1時間」は違う。きっと、時間の流れ方も違うんだろう。そんなことをふと思った。

 

*****

 

全然話題は変わるけど、絵には大きく2つの段階があり、「大まかな絵の方向性を考えている段階」と「その絵のディテールにこだわる段階」の2つに分かれていると僕は考えている。

 

最初の「大まかな絵の方向性を考えている段階」というのは、絵の解像度を下げて、絵のシルエットとか、構図とか、ポーズ・表情とか、「だいたいこんな感じで描こう」と考えているフェーズであり、次の「絵のディテールをこだわる段階」とは、絵の解像度を上げて、細部の陰影・立体感とか、質感とか、その絵のクオリティを上げていくフェーズである。

 

んで、最終的に絵のディテールをこだわるためには、最初の段階で、ある程度最終形をイメージ出来ていなければならず、それがイメージ出来ていないか、あるいは、イメージ出来ている最終形のクオリティが低いと、最終的に出来上がる絵のクオリティも低いものになってしまう。

僕の経験上、最終形がイメージ出来ていない状態で、適当にペンを入れていたら、偶然にもクオリティの高い絵に仕上がったことなんて、おそらく今まで一度もない。やっぱりそういう絵は、細部のディテールが適当になってしまって、「なんだかいまいちだなぁ」「しっくりこないなぁ」という印象にとどまってしまう。

 

逆に言うと、最終形が明確にイメージ出来ていれば、その絵は一定以上のクオリティに仕上げることが出来る。つまり、最初の段階で、いかに最終形を明確にイメージ出来ているか、言い換えるならば、どれだけ細部まで頭の中でイメージ出来ているかが重要なんだと思う。

 

このイメージが僕はまだまだ弱い。もっと細部にこだわりたいし、そのためにも、もっとイメージを鍛えていく必要性を感じた。