箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

性善説・性悪説に関するよくある誤解について

性善説_性悪説_誤解

 法務をやっていると、「もしかしたらこんなことになるかもしれない、あんなことになるかもしれない」と、契約相手を「疑う」行動に出ることが多いため、「まさぽちさんのように、性悪説に立つのが正しいかもしれないけれど、でもね…」と諭されたりすることもあるのですが、

 

いや、ちょっと待って。

別に、私は性悪説に立っているわけではないよ?

 

 と、内心では思いつつ、話の腰を折っては悪いと思って、別に指摘することはないんですが、「性善説」と「性悪説」を誤解している人が多いように思います。 

 

 人間の本質は「悪」であり、人を疑うべきだとする考え方が「性悪説」。

 人間の本質は「善」であり、人は信じるに足りる存在だとする考え方が「性善説」。

 

  という風に考えていませんか?もし、心当たりのある方は、本記事を読むと、もしかしたらちょっとは役に立つかもしれません(`・ω・´)

 

 

性善説と性悪説の本来の意味(概念)

 まず、大辞林 第三版は、性善説を次のように説明しています。

人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説。

 

 続いて、性悪説のことを、次のように説明しています。

人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とする説。

 

 要するに、性善説とは、人間は先天的に「善の兆し」を備えており、修養によってこれらの兆しを、「徳」へと顕現させることができるが、後天的に、外的環境によって善なる本性が汚損されることにより、「徳」を失い、「悪」の心が芽生える可能性もあるとする考え方です。

 他方、性悪説は、人間の本性を「悪(利己的欲望)」とみなし、これを放任すれば他人の欲望との衝突によって世は乱れることになり、悪なる人を善に導くためには、後天的な作為による規制が必要だとする考え方です。

 

 つまり、両者は、人間の本質の出発点が、「善」なのか「悪」なのかという違いであり(細かく言えば、もっと違う点はあるでしょうけど)、「人間が善になることも悪になることもあり得る」という点は、どちらも認めているのです。

 

単純な二元論で割り切れるほど人間は単純な生き物ではない。

 そもそも、孟子にしても荀子にしても、「人間は善か悪か」などという、紋切型の二元論的な議論はしていないし、そんな議論がとんでもなく馬鹿げたものであることは百も承知でしょう。

 

 人間は善でもあるし悪でもある。そのどちらかであると割り切れるほど単純な生き物でないことは自明です。あくまでも、性善説・性悪説は、人間の「善」「悪」の由来を、人間の本性・本質と結びつけて考えた倫理思想であり、社会全体として、人間に対してどのような規制を及ぼすべきかという問題意識の現れであるといえます。

 

 なので、仮に性悪説に立ったとしても、人が積極的な作為により善の方向に導かれているのであれば、人を信じることもできるし、性善説に立ったとしても、後天的な事情によって、悪行を行う人を疑うこともできます。

 

人間の性など分からない。

 冒頭において、私は性悪説に立っているわけではないと言いましたが、性善説でもないです。孟子以前には、「人間の本性は善でも悪でもない」という考え方(性白紙説)や、「性が善である人もいれば、性が悪である人もいる」という考え方、「性に善と悪が入り混じっている」という考え方などがあり、個人的には、人間自体を善と悪のどちらかと割り切れない以上、人間の本性についても、善と悪のどちらかに割り切るのは無理だろうと思います。

 

 強いて言えば、人間の本性は善でも悪でもないという性白紙説でしょうか。うん、これが一番しっくり来る気がします。皆さんはいかがでしょうか?