箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

ログラインの考え方をそのまま漫画に持ち込むべきではないという話

「SAVE THE CATの法則」をはじめとして、ハリウッド映画界における脚本の考え方が日本の漫画業界にも持ち込まれるようになった結果、至るところで「ログライン」という単語を聞くようになった。

 

 

うーん。ただ、これってどうなんだろう…と思っている自分がどこかにいて、ログラインの考え方をそのまま漫画に当てはめるべきではないというか、別に持ち込んでも良いんだけど、その前提として、「映画と漫画は違う」ということを意識しておかなければならないような気がしている。

 

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まず、最初にログラインについて軽く触れておくと、ログラインとは以下に挙げるようなものをいう。

 

  • 冷酷非道な魔王が、人間社会に転生してきて、過酷なブラック企業に勤めることになった。そのブラック企業には気の弱い女性社員がいて、彼女は魔王に「自殺したい…」と悩みを打ち明ける。
  • 一切他人を信じない孤独な殺し屋が、心優しい教師と出会う。殺し屋は依頼主の命令に従い、嫌々ながらも教師がコーチを務める野球チームに助っ人として出場することになる。
  • これまでの人生で様々な幸運に恵まれてきたプライドの高いエリート会社員が、1日だけ不運に見舞われる呪いにかかってしまう。しかも、その日は人生最大の商談が控えている日で…。

 

まあ、なんとなくこんな感じかな…というものを、5分ぐらいで考えてみた。あらすじというか、物語の冒頭部分を簡単に要約したものという感じだろうか。専門書を読むと、「物語の広がりをイメージできるもの」「皮肉(ひねり)のあるもの」が条件だという。

 

5分で考えたことに対して驚く人がいるかもしれないけど、ひねりを加えたログラインを考えること自体は難しくも何ともない。なぜなら、意外な組み合わせを考えるだけだから。

 

「魔王」と「ブラック企業

「魔王」と「自殺願望のある社畜社員」

「殺し屋」と「心優しい教師」

「殺し屋」と「チームスポーツ」

「強運の持ち主」と「不運になってしまう呪い」

 

…というように、「コレとコレを組み合わせたら面白そう」と思うものをくっつけただけで、特に深いことは考えていない。

まあ、大抵の場合、それは「真逆の要素」「真逆の価値観」を持ってくるだけの単純作業であり、主人公が「正義感の強い人間」なのだとしたら、敵役やバディ役に「倫理観が欠落している人間」を持ってくるとか、そういう主人公を「ギャング組織に潜入捜査させる」とか、真逆の要素を付け足せば、あっという間に面白そうなログラインが出来上がる。

 

ログラインにおける「皮肉」とか「ひねり」の正体は、全部コレである。

 

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じゃあ、これの何がダメなのかって話なんだけど、もちろんダメだと言ってるわけではなく、読む人が「面白そう」と思うならそれで良いと思う。

 

…ただね。業界全体を見回したときに、意外性のある組み合わせを考えることがログラインの至上命題であるかのように捉えられているフシがあって、そういう風潮に対して若干辟易しているというか、それを作品のアイデアだと勘違いしている人たちを大量に生み出すことになったログラインの罪は大きいと思っている。

 

何度でも言うけど、ひねりの効いたログラインの正体は、意外な組み合わせであり、それ以上でもそれ以下でもない。はっきり言って誰でも簡単に作れるし、僕の違和感の源泉はそこにあると思う。

ハリウッド映画のように、2時間ぐらいの決められた時間の尺の中で、パッと楽しめるエンタメコンテンツを作れというなら、そういう分かりやすい手法に傾倒するのもあながち間違いではないと思うけれど、そんな分かりやすいものばっかり作ってどうすんだと思っている自分もいる。

 

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ログラインが絶対ではないという僕の考え方を敷衍するために、いくつか人気の漫画作品を挙げて説明したい。

 

例えば、山口先生の「ブルーピリオド」は、美大受験を目指す若者たちの青春を描いた作品だけど、そのログラインを書き出すとしたら、たぶんこんな感じになると思う。

人生に空虚な感情を抱いている冷めた高校生が、とある1枚の絵に出会ったことをきっかけにして、己の中にある美を求める心に目覚め、個性的な仲間たちと美大を目指すようになる。

 

・・・どうだろうか。「1枚の絵に出会ったことが美大を目指すきっかけになった」という目新しさはあるものの、「人生に冷めている高校生」と「美術、美大」という組み合わせは別に意外ではない。このログラインだけ聞くと、いかにもありそうな青春群像劇という印象を受けなくもない。

 

 

他にも挙げてみたい。

 

魚豊先生の「チ。ー地球の運動についてー」のログラインはこんな感じだろうか。

天動説を信じている打算的な優等生タイプの少年が、地動説の研究をしている異端者と出会ったことをきっかけとして、地動説の美しさや魅力に取り憑かれるようになり、やがて自分の人生をかけて地動説を研究することを決意する。

 

こちらも特にログラインにひねりがあるとは思えないし、これだけ聞けば「地動説を扱った中世ヨーロッパの歴史系の漫画かな?」ぐらいの印象しか受けない。

 

 

もうひとつだけ例を挙げる。

 

藤本タツキ先生の「チェンソーマン」のログラインは次の通り。

死んだ父親が残した借金を返済するためにデビルハンターの仕事をしている少年が、ある日雇い主のヤクザに騙されて殺されてしまうが、チェンソーの悪魔であるポチタを体内に取り込むことによってチェンソーマンに変身する能力を身に付け、それがきっかけで様々な敵と戦うようになる。

 

本作はダークファンタジーなので、「デビルハンター」とか「チェンソーマン」といった藤本先生独自のオリジナル概念が登場するものの、「少年が特殊能力に目覚める」という枠組み自体は意外ではなく、このログラインだけ聞いても「ちょっと暗い感じの少年漫画」という印象を受ける。

 

 

ところが・・・である。これらの作品は、ログラインの印象とは関わりなく、読んだらめちゃくちゃ面白いのだ。ログラインが面白さと関係がないということの証左ではないかと僕は感じている。

つまり、面白そうなログラインだろうが、あまりひねりのないログラインだろうが、コンテンツの面白さは中身(キャラクター、エピソード)で決まるということであり、僕がログラインを絶対視していない理由はここにある。

 

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というか、なんで映画業界ではやたらとログラインが重視されているかって言うと、脚本家が自分の脚本を映画プロデューサーにアピールするにあたって、プレゼン資料としてログラインを用意する必要があるからだ。

と言うのも、ハリウッド映画の世界では、多くの脚本家たちがしのぎを削っており、いきなり何百ページにもわたる脚本を渡して、「ヘイ!頑張って書いたからこれを読んでくれ!」というわけにはいかない。自分の書いた脚本を簡単に要約したものを先に説明し、興味が湧いたものだけが読まれる…という図式になっている。

 

ここが映画と漫画とでは違う。

漫画では、持ち込みとか賞に応募すれば、編集者や審査員が必ず漫画原稿の中身を全て読んでくれるし、「先にログラインだけ教えてくれ」という話にはならない。仮にログラインが面白かったとしても、目の前にある漫画原稿の中身が面白くなかったら何の意味もないからだ。

 

ただ、ログライン脳に染まっている編集者は少なからず存在していると思っていて、企画段階で「ひねりの効いたログラインを出せ」と要求してくるケースはあるだろうなーと思う。

例えば、新人作家がブルーピリオドのようなアイデアを出すと、「ひねりがない。主人公をもっと工夫しろ」という話になって、「スクールカーストの上位にいる高校生」ではなく、「喧嘩ばかりしているヤンキー」を主人公にするとか、そういうことが往々にしてよく起こる。「ヤンキー」と「美術、美大」の組み合わせは意外だからだ。

 

そういう現象をどう感じるかは人それぞれだけど、僕はログラインを媒介にして漫画コンテンツが俗物化していると感じており、明らかにログラインの弊害だと思っている。ログラインを全否定するわけではないけど、絶対の基準だと考えない方が良い。たぶん。