箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

漫画の情報提示に必要なのは「ワクワク感」だと思う。

本日は、漫画の「情報提示」についての考察を少し。

 

漫画は物語であり、キャラの感情だけを切り売りしているわけではないので、オチに行き着くまでの前フリが必要になる。つまり、キャラが怒ったり泣いたりしているところだけを見せて感動が生まれるわけがなく、「なぜそうなったのか」を説明する必要があるわけだ。

ところが、「前フリ」や「途中経過説明」は往々にして退屈である。長々とセリフが描かれているページを読んでウンザリした経験は誰でもあるだろう。要するに、情報提示は必要なんだけど、残念ながら退屈なのだ。漫画はこういった矛盾を抱えている。

 

最近の漫画の傾向

この点について、最近の漫画は次のような考え方を取っているんじゃないかと思う。

 

すなわち、漫画というのはその構造上、読者に対して「情報」を提示する必要があるんだけども、一番盛り上がるのはキャラの「感情」を見せるシーンなので、これをいかに多く見せるかという視点から物語を考える必要が出てくる。そこで、「情報」の量を出来る限り少なくして、「情報」と「感情」を高速でサイクルさせよう・・という発想が生まれる。最近の漫画はこの傾向が顕著なのだ。

 

この考え方は物凄く理に適っていて、最近の読者は、退屈な情報提示のシーンを真剣に読んでくれるほど甘くない。退屈だと感じたら、早々に離脱してしまう。一番盛り上がるキャラの感情爆発シーンまで読んでくれないのだ。

あるいは、仮に最後まで読んでくれたとしても、情報提示シーンを真剣に読んでいないので、作者が思っているほど感情移入しておらず、キャラの感情爆発シーンで白けてしまう現象が起きる。読者側は冷めているのに、漫画の中のキャラクターだけが勝手に盛り上がっているというギャップが生まれるからだ。

 

そこで最近の漫画は、「情報提示シーンで読者が離脱してしまうんだったら、そのシーンをバッサリ切り捨ててしまって、物語が盛り上がるキャラの感情爆発シーンを多く見せよう」という思考に至った。

 

ちなみに、「最近の漫画は展開が早い」という人がいるが、僕から言わせると決して展開が早いわけではない。情報量を出来る限り少なく抑え、キャラの感情表現の量を多くすることにより、物語が早く展開しているように感じるだけだ。

例えば、ジャンプで連載していた「Dr.STONE」という作品は、1話目からドンドン物語が展開しているように感じるが、あれは登場人物の関係性やバックボーンといった枝葉の情報をいったん省略し、重要な出来事だけを描くことにより、物語がとてつもないスピードで進んでいるように感じるだけである。

もし、Dr.STONEの1話目を丁寧に描こうと思えば、大木大樹が小川杠に対して恋心を抱くようになったきっかけとか、大木大樹と石神千空との関係性を掘り下げる・・といったことも考えられるだろうが、そのような「情報」を提示したところで、おそらく1話目の着地点は変わらないだろう。つまり、途中下車している駅の数が違うというだけで、進んでいる距離は変わらない。物語が展開するスピードは同じなのだ。

 

これはDr.STONEだけの話ではない。最近の漫画は、このように意図的に情報量を減らすことにより、物語のテンポを早めて、盛り上がるポイントをたくさん作っている印象を受ける。

 

情報提示において一番重要なこと

僕は、このような最近の漫画の考え方は正しいと思っているし、基本的にこの考え方に沿って漫画を描いた方が良いと思っている。

しかし、情報提示というのはいわば「フリ」であり、ちゃんとオチに繋がるようなフリを描かなくてはいけないことに変わりはない。つまり、「情報量を減らす」という発想をベースにしつつも、やっぱり「面白い情報を見せる」という考え方はどこかに持っておいた方が良いと考えている。

 

じゃあ、その面白さとは何なのかと言うと、はっきりとした答えは無いし、漠然とした回答になってしまうけども、僕は「ワクワク感」じゃないかと思っている。これが現時点における僕の答えだ。

 

そもそも、読者は真剣に漫画を読んでいないことの方が多い。「面白かった」という読後の感想は覚えているけども、物語の内容を覚えていないというケースもたくさんあるだろう。これは物語の内容を漠然と読んでいることの証左だ。

つまり、読者は何となく漠然と漫画を読んでいる…と言える。漫画創作者はこの点をまず理解する必要がある。

 

この理解を前提に話を進めると、読者はパッと見の印象で続きを読むかどうかを決めている…ということになる。要するに、情報提示シーンで離脱する人が多いのは、「セリフが多い」とか「印象的な絵が無い」といった理由から、感覚的に「面白くない」「退屈だ」と判断しているからに他ならない。別にそれ以上の理由はないし、もっと言うなら物語の内容が面白くなかったからではない。パッと見の印象が悪かっただけだ。

だとすると、その逆も同じことが言える。情報提示シーンで離脱せずに続きを読もうと判断した読者がいた場合、それは何か明確な理由があってそのような判断に至ったのではなく、パッと見の印象で何となく感覚的に「面白そうだ」と感じたからである。

 

つまり、情報提示シーンで読者を離脱させないために必要なことは、「漠然としたワクワク感」を提供すること…と言い換えても良い。というか、ぶっちゃけた話をすれば、この「ワクワク感」を提供することができれば、物語の内容はそこまで重要じゃない。

僕は、この点をとても重要視しており、ネームを描くときに、自分の中でOKを出す基準もここにある。「目を引くような印象的な絵が描けているか」「ワクワクするような絵面になっているか」「セリフの量が多くなっていないか」「絵だけで物語の内容を推測させるようなものになっているか」といった基準に当てはめて、この基準を満たすまで何度もネームをやり直す。全てのページでこの基準を満たしていることが理想だ。

 

この「ワクワク感」を提供することは、言葉にするのは簡単だが、実践するのはとてつもなく難しい。上手い絵を描く…ということでもないし、単に読者の感覚に訴える…ということでもない。言語化できない感覚だと思う。

ただ、はっきりとした答えが分からないからこそ、表現者はそこを追求するし、自分なりの答えを見つけようとするんだろうな。そんなことを考えていた今日このごろだ。