箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

キャラクターの変化とか作品のテーマについての考察

少年誌と青年誌の決定的な違いとして「キャラクターの変化」が挙げられる。すなわち、少年誌では大きくキャラクターが変化していくけれど、青年誌ではそれほどキャラクターに変化が起きないという特徴がある…らしい。

 

jump-manga-school.hatenablog.com

 

例えば、こちらの「ジャンプの漫画学校」の講義録をまとめた記事を読んで頂ければ分かる通り、少年誌では「変化」が強く求められている。ジャンプ風に言うなら「努力」「成長」「勝利」であり、今まで勝てなかったライバルに勝てるようになったとか、好きだった女の子に告白して付き合えるようになったとか、主人公自身が成長して、身の回りの環境に大きな変化が起き、そこに対して読者の共感が生まれる・・・という構図になっている。(→要するに、分かりやすい)

 

他方、青年誌はどうかと言うと、もちろんキャラクターに変化は起きていると思うんだけど、その変化幅は微小なものが多い。例えば、「クソだと思っていた社会に、ほんの少しだけ生き甲斐を見つけた」とか、「今まで諦めていた夢をもう一度目指そうと決意した」とか、主人公の内面の変化を描くにとどめて、「その後どうなったのかは読者の想像に任せます」みたいなオチが多い。つまり、キャラクター自体(あるいはキャラクターの置かれている立場・状況)にあまり変化がない。(→つまり、分かりづらい)

 

こちらの動画でも、ほぼ同じことが議論されているので、ご参考までに。

www.youtube.com

 

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僕は少し前まで少年漫画を描いており、最近になって青年誌に移籍しようと決意したんだけど、実はこの違いがあまり分かっていないというか、頭では理解しているつもりでも、どういうエピソードを描けば良いのか感覚的なものがまだ追いついていない。

 

もちろん、青年誌でも少年漫画っぽい作品はあるので、主人公に何か困難が降り掛かり、それを克服しながら成長していく…というキャラの変化を描いても良いんだけど、それを僕がやっちゃうとゴリッゴリの王道漫画になってしまって、自分でも描きながら「ありきたりだな」と辟易してしまう。

何と言うか、このあたりの胸のモヤモヤを頑張って言語化するならば、「キャラの変化」にはそれほどパターンはなく、「キャラの変化」を描こうとすればするほど、既存の過去作品のどれかに強く寄ってしまって面白くない…という気がしている。

 

例えば、王道バトル漫画の構成は、

 

  1. 主人公の状況説明(主人公がいかにダメな奴かという説明)
  2. 主人公の前に立ちはだかる敵・困難の存在(失敗・挫折の経験)
  3. 「成長しよう」「変わろう」と決意するきっかけ
  4. 主人公が努力している様子(あるいは偶発的な事情による能力覚醒)
  5. 敵にリベンジして勝利(困難の克服)

 

大体この座組になっている。

 

さすがに毎回このパターンでは芸がないので、頑張ってこの構成を変えようとするのだが、この構成を変えようとすると、今度は「説得力がない」「キャラに共感できない」という別の問題が生じてしまう。僕は、王道バトル漫画が廃れてしまった理由はここにあると思っていて、「キャラの変化」を描く限り、このテンプレ構成になってしまって面白くないし、テンプレ構成以外で描こうとすると今度は説得力が無くなってしまって面白くない…というドツボにハマっている。

 

つまり、「キャラの変化」を描いて、「キャラクターに共感してもらおう」っていうコンセプトは既に天井に達しているというのが僕の結論。たぶん少年誌だろうと、青年誌だろうと、分かりやすい既存のテンプレ作品を目指さない限り、「キャラの変化」に着目して描くべきではないんだろうなーと今は思っている。あくまでも個人的な感覚だけど。

 

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じゃあ、「キャラの変化」以外に何を描けば良いのか…って話なんだけど、ここが本当に難しい。というか、良い意味でも悪い意味でも「答え」がない。何を描いても良いわけだから。

言い換えるのであれば、少年誌では「キャラクターの変化」というテンプレ構成に沿って描くことは可能だけども、青年誌では「テーマ」という何の尺度も無いものを頼りにして描かなくてはならない。だから難しい。

 

例えば、浅野いにお先生の「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」では、『侵略者』と呼ばれる謎の地球外生命体が侵略してきて、東京上空に大きなUFO(母艦)が鎮座するようになった "非日常" が描かれている一方で、東京で暮らす人々の生活は至って平和であり、どこにでもいる普通の女子高生たちの日常が淡々と描かれていく点に特徴がある。

自分たちの頭上には謎のUFOがあるというのに、神経質な母親と価値観が食い違って喧嘩したり、密かに恋心を寄せる教師の部屋に遊びに行ったり、思春期を過ごす女子高生の年頃の悩みにフォーカスを当てた日常的なエピソードが展開されていく。

 

 

本作は、主人公の胸に時折打ち寄せる不安が、「非日常」と「日常」コントラストと相俟って、現代人が抱える将来に対する漠然とした不安・心配と見事にマッチしている。

もし、この作品のテーマは何かと聞かれたら、「思春期を過ごす女子高生たちの自我(自意識)と現代人の不安の投影」…といった感じになるだろうか。

 

ただ、これさえも僕が無理やり言語化したに過ぎず、本来テーマなんてよく分からないのが普通だし、浅野先生は全然別のことを考えているかもしれない。テーマなんて所詮あとづけのよく分からない抽象的なものなのだ。実際、浅野先生は6年ぐらい前の過去のインタビューにおいて、「共感を漫画に求めていない」とコメントされているし、少なくとも分かりやすいテーマというものは無いんじゃないかと想像する。

 

area.autodesk.jp

 

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つまり、少年漫画は「キャラの変化」という分かりやすさがある一方で、テンプレ漫画が危機的なほど飽和状態に達しており、逆に、青年漫画はテンプレは存在しない代わりに、「テーマ」という曖昧なものを求められるので分かりやすさを犠牲にしている。今の漫画業界を俯瞰して見たらそんな感じじゃないだろうか。

 

話を元に戻す。

 

最終的に共感するかしないかは読者が勝手に決めることなので、結局は「描きたいものを描け」「描きたくないものは描くな」というところに行き着いて、それ以上の議論は無いような気もする。だとすれば、僕は何を描きたいんだろうか、そして何を描きたくないんだろうか。

何か見つかる気もしているんだけど、同じところをグルグルと回っている感じもしていて、今日も今日とて、僕の筆は進まない。さっさと何か描こう。うん。