箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

新海誠、浅野いにお、リアリズム、現代的多様性

僕は新海誠監督と浅野いにお先生はクリエイターとして近しい位置にあるのではないかと思っていて、若者の満たされない思いとか、発展途上にある若者の苦悩とか、不条理な社会に翻弄される若者とか、要するに「若者の不完全な自我」にフォーカスを当てている点で共通している。

しかも、単に若者の自我を切り取るだけではなく、そこには必ず「世界と自分」という対比があり、新海作品・浅野作品のいずれにおいてもリアリティを徹底的に追求している点に特徴がある。もし、2人の違いを挙げるとすれば、新海作品は若者の明るい部分を切り取り、浅野作品は若者の暗い部分を切り取ろうとしている…といったところだろうか。月並みの表現だけども。

 

ただ、このような説明は正確ではない。と言うのも、新海作品は「明」の部分だけを描いてきたわけではなく、初期作品はどちらかと言えば「暗」の部分にフォーカスを当てていた印象だし、浅野先生もデビューから近年に至るまでダークな雰囲気が漂う作品をメインで描いてこられたが、近年の作品である「デッドデッドデーモンズデデデデストラクション」は、思春期を過ごす女子高生たちの悩みにフォーカスを当てつつも、基本的には活発な女子高生たちの「明」の部分が目立つ構図になっている。

 

つまり、僕の解釈によると、新海監督・浅野先生のいずれも、雰囲気の暗い作品から雰囲気の明るい作品へとシフトチェンジしたクリエイターといえる。

おそらく、時期的に言えば、2014〜2016年あたりだろうか。浅野先生は2014年から「デッドデッドデーモンズデデデデストラクション」の連載をスタートさせ、新海監督は2016年に「君の名は。」を公開している。いずれも転換点となった作品だ。

 

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僕はこのような方針転換の背景に、世間的なリアリズムに対する飽きがあるのではないかと勝手に思っている。

 

誤解を恐れずに言うと、僕は浅野先生の作品が大の苦手であり、浅野先生の代表作である「おやすみプンプン」は数ページしか読んだ記憶がない。ドロドロとした負の感情が頭になだれ込んできて、それ以上読み進めることが出来ないのだ。

最近になって、浅野先生の短編集「ばけものれっちゃん/きのこたけのこ」も読んだんだけど、やっぱりお腹いっぱいになってしまった。表題作である「ばけものれっちゃん」は同調圧力に苦しむ等身大の高校生が描かれていて、自分の高校時代と重ね合わせて共感できる部分も多かったが、Amazonで高評価だった「TEMPEST」は救いようのない展開となっており、なぜこんな絶望的なラストにしたのか意味が分からないし、「きのこたけのこ」については「何となく雰囲気を楽しんで下さい」と言われている気がして、あまり感想が思いつかなかった。

 

 

僕の印象的なところで言うと、新海監督の初期作品も似たようなものであり、90年代〜2000年代は、このようにリアリズムに傾倒したサブカル系の作品が大量に生み出されていった。

そこに共感を覚える若者もたくさんいて、サブカル系の作品は一定の地位を確立していったんだけど、リアリズムを追求していった先にある「人間のエゴ」とか「人間性の本質」みたいなものを、包み隠さず正直に表現したところで、人間の陰鬱な感情が呼び起こされるだけで、それ以上何も無いということを現代人は悟った。端的に言うとリアリズムに飽きたのだ。少なくとも僕はそう思う。

 

もちろん社会情勢とか世相的なものも関係していると思うけど、その根底には、「物語創作はどこまでいってもフィクションであり、リアリティだけを追求することに意味はない」「人間は色んな側面をもった多面的な生き物である」という考え方があって、このような風潮に切り替わっていったのが2014年〜2016年頃だったんじゃなかろうか。

新海誠監督・浅野いにお先生もその潮流に気づいていて、自分自身の思想や価値観をキャラクターに反映させるだけでなく、現代人の価値観をキャラクターに投影させることにより、現代の感覚に合った多面的な作品を作ろうとしているようにも見える。多様性を求める現代人のスタンダードはたぶんそこにある。

 

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新海監督や浅野先生は、世代的に言うと就職氷河期をもろに経験した世代であり、日本社会の価値観が大きく変化していった時代に思春期を迎えている。要するに、日本社会が築き上げてきた既存の価値観に「嘘」や「偽り」を感じることが多かったんじゃないかと想像する。

実際、サブカル系の作品が大流行したのは、漫画やアニメがそれまでに描いてきた予定調和のプロットに対する強い反発の現れであり、さながら現体制を打破しようとする学生運動のような熱気がリアリズムへと傾倒させていった。僕も世代的には近いのでたぶん感覚的には同じ根っこを持っていると信じたいんだけど、サブカルは学生の革命運動と同じだと感じる。

 

そして、その革命運動はある種の終焉を迎えている。革命運動の先に何も無いと露呈してしまったから。だから、今は次のスタンダードになりうる価値観や座標軸を皆が模索している段階なのかもしれない。

 

僕も作品のテーマとしては、「若者の自我」を扱うことが多く、その切り口をずーっと探している。リアリティをどこまで追求するのか、作品の中にどこまで「嘘」を含めるのか、未来に対する希望はあるのか、読者のどういう感情を呼び起こしたいのか、雰囲気は明るいのか暗いのか、写実的なのか抽象的なのか、予定調和なのかそうではないのか…等々。

たぶんそれは他の人も同じで、リアリティが何なのかよく分からない時代の中で、自分なりの答えを見つけたくて皆必死なのだ。