箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

野田洋次郎の「ラリルレ論」を読んで。

今、RADWIMPS野田洋次郎のエッセイ本「ラリルレ論」を読み進めている。

僕は活字をたくさん読むと目と頭が盛大に疲労してしまって、それ以上何もやる気が湧いてこなくなってしまうから、毎日ちょっとずつ読むようにしている。

 

 

このエッセイ本は2015年に刊行されたもので、2014年2月から7月までの半年間に及ぶ日記だ。RADWIMPSはこの年にかなり大規模な全国ツアーを実施したらしく、その忙しい合間を縫って洋次郎がせっせと書いたものである。

 

8年前といえば、このブログを開始した時期と同じであり、僕がこのブログを開設してウダウダと御託を並べていた時に、洋次郎はこんなビッグなイベントをこなしつつ、僕とは比較にならないほど深いところで悩み苦しんでいたんだなと思うと、何とも言えない感慨深い気持ちになる。まあ比較するものではないね。ファンの人に怒られちゃう。

 

洋次郎は本の冒頭にて、2014年3月16日付の日記を載せ、続いて1年後の2015年3月16日時点での気持ちを綴っている。そこで洋次郎は「1年前の自分はこんなことを思っていたらしい」と語っている。「憶えていない」と。

僕もそうだ。8年前のブログ記事を見返しても全くピンとこないし、その当時の感情なんてほとんど憶えていない。かろうじて1年前は憶えているかもしれないけど、2年前はもう怪しい。その時はその時で何かしら思うことがあったんだろうけど、今の僕は違うことを思っている。

 

RADWIMPSの「ソクラティックラブ」にこんな歌詞がある。

 

君は僕が愛しいと言うけど それは僕のナニを指すのだろう

僕を僕たらしめるものが何なのか教えてよ

例えば 顔が半分に 腕が二、三本に 眼が五等分にちぎれちゃって

脳みそが隣人に 声が宇宙人に アレが人参に

変わっちゃったとしても 君は僕だと言えるの?

僕の何が残っていれば僕なのだろう?

 

人間の細胞は正しく新陳代謝がなされていれば約5年〜7年ほどで全て入れ替わるという。まつ毛に至っては30〜100日で全部生え変わる。だから、8年前の僕と今の僕は別人だ。DNAに刻印されたプログラムに従い、「僕っぽいもの」を再生成しているだけで、8年前のソレとは違う。価値観や思想も違う。

 

そして、僕はそれで良いじゃないかと思ってしまう。別に違っていても良いし、「僕を僕たらしめるもの」が見つからなくても、その都度「これが今の僕です」と自己紹介すれば良い。だけど、洋次郎はその時間的連続性の中に「自分」というものをちゃんと定義しようとしていて、やっぱりどこまでいってもアーティストだなと思う。

 

雑然と、混沌と、平穏と、矛盾と、諦めと、渇望と、苛立ちと、幸福と、昇天と、etc。呆れるくらい、この星のどこにでもあるありふれた感情。その集合体が僕だった。

本著5頁より。

 

やっぱりカッコいいな。洋次郎は昔から憧れだ。変わってもいいけど、8年後も洋次郎で居て欲しい。僕も次の8年後に向かおう、と思う。このラリルレ論に触発されたわけじゃないけど、なるべく日記を書こうと思い立った。僕を僕たらしめるものの欠片を残すために。それでは。