箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

【感想・レビュー】FFタクティクスが現代社会に与えたメッセージ

SRPGの名作と名高い「FFタクティクス」について、今更ながらiOS版をクリアした。

 

僕が初めてFFタクティクスをプレイしたのは、中学生ぐらいの頃であり、FFタクティクスの "最大の難所" と言われているリオファネス城のウィーグラフ戦で詰んでしまったことを昨日のことのように思い出す。

その当時は、①シミュレーションゲームに関する知識や理解が不足していたこと、②現在のようにネット上の攻略情報がなく、ほとんど自力でクリアしなければならなかったこと…という点が大きな要因となり、僕の心はポッキリと折れてしまった。

 

しかし、攻略情報が溢れかえった今となっては、むしろクリアできない人の方が少なく、僕は無事に中学生時代にやり残したことを回収した。まあ要するに、今回のクリアは、苦節20年以上にわたる僕とFFタクティクスとの物語でもあったわけだ。良かった良かった。

 

…まあ、前置きはそのぐらいにしておこう。

 

今日は、FFタクティクスをプレイした中で僕が気になった点というか、取り留めのない感想をツラツラと書いていこうと思う。当然のことながら、本記事にはネタバレが含まれているので、その点だけご留意頂きたい。

 

 

主人公(ラムザ・ベオルブ)の幼稚さ

本作と同じ世界観を有したFFナンバリングタイトルの中に「FF12」という作品がある。

FFタクティクスと同様にイヴァリースという世界線で描かれた作品であり、FF12の人気キャラであるバルフレアも本作に仲間として登場しているので知っている人も多いはずだ。

  • FFタクティクスとFF12は世界観だけでなく時間軸も共通しており、FFタクティクスより1000年以上前のはるか昔の世界がFF12である。時系列で言うと、ゾディアックブレイブストーリーの聖アジョラの時代よりも、FF12の方が古いということになる。

 

実を言うと、僕はFF12についても途中でプレイを断念しており、未だにクリアもしていない。難しくてクリアできないとか、ストーリーに魅力がないとか、そういう理由ではなく、単純にヴァンという主人公に感情移入出来なかった

 

一度でもプレイしたことのある人ならお分かりだと思うが、FF12は(FFタクティクスと同じく)戦争を題材とした複雑かつ重厚なストーリーとなっており、完全に大人向けの作品である。

…にもかかわらず、ヴァンという無知で感情的な子どもが主人公に据えられており、(バルフレアを筆頭に)理知的でカッコいい大人が多数登場するFF12において、ヴァンの幼稚さは異質かつ顕著である。「なぜこんな子どもが主人公なのか」という残念な気持ちが沸々と湧き上がってしまったのは僕だけじゃないはずだ。

 

もちろん、ヴァンのような幼稚なキャラクターがいてもいい。しかし、幼稚なキャラというのは、あくまでも理知的なメインキャラクターの対比として、場をかき乱すトリックスター的な立ち位置として描かれることが多く、基本的にはプレイヤーをイライラさせる存在でしかない。FF12のような大人向けの作品において、決して主人公タイプではないのだ。

何のシーンだったか忘れてしまったが、投獄されているメインキャラの1人を助ける場面で、絶対に敵に見つかってはいけない状況にもかかわらず、ヴァンが感情を爆発させてワーワー騒いでいるシーンがあった。その様子を見て僕はそっとプレステの電源を切ったのだが、僕の心を幻滅させるぐらいに、ヴァンはなかなかのクソガキだった。

 

そして、FFタクティクスの主人公であるラムザもヴァンと同じように無知で感情的な子どもであり、理想論や綺麗事を並べる世間知らずのクソガキだ。

作中において、ラムザが「子供」と罵られたり、子どもっぽい一面を見せる場面が垣間見られる。

 

例えば、FFタクティクスには次のようなやり取りがある。

 

真の黒幕であるグレバドス教会は、イヴァリース国内に内戦(獅子戦争)を巻き起こし、その混乱に乗じて国家の覇権を握ることを画策していた。そんな中、教会の神殿騎士イズルードはラムザに対して、自分たちは「身分の差など気にせずに皆が平等に暮らせる世界」を目指していると言い、腐った貴族社会を打破するためには多少の犠牲もやむを得ないと言い放つ。

結局、グレバドス教会の真の目的は異なっており、イズルードの言っていることも綺麗事に過ぎなかったわけだが、これに対するラムザの見解は「いや、でも争い事はダメじゃん?」…である(そんな言い方ではないが)。「天が定める正義」などと、あれこれ言葉を付け足しているが、彼が言っていることはその一言に尽きる。


そんなことは誰しもが分かっている。

 

本作に登場するキャラクターたちは、そのような理想論をどこかのタイミングで卒業し、それぞれの正義を胸に現実と向き合おうとしていた。国内平定のために王女誘拐に助力したガフガリオンもそうだし、貴族社会を打破して新秩序を築くためにグレバドス教会に与することになったウィーグラフもそうである。

しかし、ラムザは、特定の思想を持たず、特定の団体にも属しない傭兵というポジションを貫いており、それは最後まで変わらない(教会から一方的に『異端者』と認定されているが)。つまり、いつまでも現実と向き合わずに綺麗事を並べている放蕩息子のようなものであり、その甘っちょろい考え方やスタンスがヴァンと重なって見えても不思議ではなく、FFタクティクスは主人公にイライラするかもしれない可能性を内包したストーリーなのだ。

 

FFタクティクスのストーリーの正体

…しかし、僕はあまりラムザに対してイライラしない。

 

その理由は自分の中で明確だ。何故なら、最終的にラムザが立ち向かおうとしていたのは、聖石に封印されしルカヴィ(その親玉である聖天使アルテマ)だったからだ。

 

すなわち、不死の魔物であるルカヴィは人間世界を制服せんとする絶対悪であり、「ラムザ一行」VS「ルカヴィ」という二項対立が成立している。言い換えるのであれば、このゲームの中で唯一ラムザの行動が正しいと言い切れる状況がそこにあったわけだ。

 

ただし、それすらも人間の側から見た「正義」という話になるかもしれないが…。

 

「誰が正義か分からない」という大人向けのストーリーにしてしまうと、純真無垢なキャラクターは幼稚に見えてしまうが、勧善懲悪の分かりやすいストーリーにすると、むしろラムザのような真っ直ぐな心を持つ少年の方がしっくりくる。

つまり、FFタクティクスは、複雑な人間関係が織りなす大人のストーリーと見せかけて(ラムザが子どもに見えるように誘導しておいて)、ルカヴィという魔物を倒す正義のヒーローの物語(ラムザが正しく思える物語)なのだ。

 

僕がラムザに対してイライラしないのは、その点が非常に大きいと感じている。

 

ゾディアックブレイブ(聖石・ルカヴィ)

結果として、ゾディアックブレイブをはじめとする聖石やルカヴィといったファンタジー設定は、FFタクティクスにおいて重要な役割を果たしていたと言えるが、重厚な歴史モノだと思っていたら、中身はファンタジーでした…というオチになっており、がっかりした人も多いかもしれない。

 

実際、FFタクティクスの世界でも、ゾディアックブレイブストーリーはお伽噺だと認識されており、敬虔なグレバドス教信者でも実話だと信じている者はいない。例えて言うのであれば、日本書紀古事記に出てくる神話は創作だと思っていたら、全て実話だった…という大河ドラマをやっているようなものである。大河ドラマファンはさぞかしビックリするだろう。

 

ただし、これに関しては、ファイナルファンタジーシリーズの外伝的作品である以上、ファンタジー要素が登場するのは必然と言えるし、FFTの松野氏が手掛けた「タクティクスオウガ」においても、最終的にはファンタジー要素が登場したことから、納得せざるを得ない部分かもしれない。

 

ラムザディリータとの関係性

もうひとつ押さえないといけないのは、本作の主人公であるラムザディリータとの関係性についてだろう。

 

この物語において、ラムザは「貴族という地位を捨てて、イヴァリースを飲み込もうとした絶対悪と戦った聖人」として描かれ、ディリータは「己の出世や権力獲得のために、利用できる人間は全て利用しようとした陰の暗躍者」として対照的に描かれている。

かつて苦楽や理想を共にした友が、社会の現実に直面し、それぞれ歩む道を違えた…という象徴的なツートップとなっているのだ。

 

ただ、この2人の関係性については、先ほどの「ラムザ一行」と「ルカヴィ」のように完全な二項対立にはなっておらず、むしろお互いの立ち位置について一致する部分も多い。

例えば、士官候補生時代のティータの一件があって以来、ディリータはベオルブ家を出奔するとともに、当初はラムザに対しても激しい憎悪を向けていた。しかし、疑問を抱いたラムザもベオルブ家を飛び出しており、お互い目指すところは違うものの、「何者でもない」という点では共通している。

 

ディリータは自らのことを「持たざる者」と言ったが、それはラムザにも当てはまる話である。

 

つまり、ディリータにとってラムザは「憎むべき貴族側の人間」ではなく、同じく歴史の大波に翻弄された悲しき境遇を共有する友であり、お互いに手を取り合おうと思えば決して出来ない関係ではないのだ。

それが証拠に、物語の終盤において、ディリータラムザが共闘するシーンもある。この2人の根本的な関係性は、実は士官候補生時代から変わっていないと見ることもできる。

 

凡作であれば、この2人を単純に対立させたかもしれない。

しかし、「付かず離れず」という微妙な関係性に終始させた点が、FFタクティクスという作品にリアリティをもたせ、物語を更に奥深いものに変えていると感じる。これが名作たる所以かもしれない。

 

恋愛要素

なお、恋愛要素を削ぎ落とした点も個人的には好印象だった。

 

本作には、恋慕のようなものはほとんど描かれず、僕が認識している限り、はっきりと男女の愛を描いたのは、ベイオウーフとレーゼの関係ぐらいである。

それ以外で言うなら、獅子戦争後に結婚することになるディリータとオヴェリアの関係性も挙げられるが、クリアした人ならご存知の通り、最終的にディリータはオヴェリアに刺されており、この2人の関係性はどちらかと言えば「裏切り」というキーワードの方が似合う。

 

また、ほろ甘い片思いのエピソードとして、ムスタディオがアグリアスに誕生日プレゼントを渡すというイベントがあるが、このイベントの発生条件はめちゃくちゃ面倒臭い上に、アグリアスカップリングを務めるのはムスタディオという脇役である。

まあ、何というか、こういう点に制作陣の無骨さを感じるというか、安直に恋愛要素を出しておいて、プレイヤーをブヒブヒ言わせようとせず、最後まで重厚なストーリーを貫いたのは良かった。

 

"何者にもなれなかった"という結末

そして、この作品を語る上で欠かせないのが「何者にもなれなかった」という結末である。

 

ディリータは獅子戦争の英雄としてイヴァリース王に君臨し、影武者として育てられたオヴェリアは本物の王女となった。なので、「何者にもなれなかった」と言えば違和感を覚えるかもしれない。

しかし、この2人は最終的に決別し、オヴェリアがディリータをナイフで刺すという凶行に及んでいる。結局、その後オヴェリアは死んでしまい、ディリータは孤独に統治を続けたとされる。

 

最後までオヴェリアの孤独は消えなかった。

本物のオヴェリアの身代わりとして育てられた偽オヴェリアはディリータを信頼することができず、裏切りに裏切りを重ねたディリータは愛を失った。この2人は全てを手に入れたように見えて、実は何も得ておらず、彼らが就いた輝かしい玉座は偽りの地位に過ぎなかったと言えるだろう。そういう意味では「何者にもなれなかった」という表現が正しいのではないかと思う。

 

また、ラムザ一行は聖天使アルテマとの戦いの後に無事に地上へと帰還したものの、ラムザは教会から『異端者』と認定されていることから、イヴァリース世界でまともに生きていくことはできず、歴史の表舞台から姿を消して、アルマとひっそり暮らしたことが公式によって明らかにされている。

 

当然のごとく、ラムザに協力した仲間たちも教会から目をつけられていたので、イヴァリースでまともに生きていくことは無理だろうし、シドルファス・オルランドゥについては、ゴルターナ公を暗殺した裏切り者として処刑されたことになっている(シドの影武者を処刑したのは、他でもないイヴァリース王となったディリータである)。つまり、ラムザを含め、仲間についても誰一人として「何者にもなれなかった」と言える。

 

しかし、愛を失って孤独に統治を続けたディリータとは異なり、エンディングに登場するラムザ(オーランが目撃した幻影のような姿)に悲壮感は感じられない。チョコボに乗ってイヴァリースの大地を駆け抜けていく彼の背中は颯爽としており、「自由」を感じさせる。

つまり、「何者にもなれなかった」という結末は共通しているものの、その意味は全く異なっているのだ。

 

 

そして、この点こそが、FFタクティクスにおいて最も重要なメッセージ性を含んでいると言える。

 

現代社会は「何者かになりたい」という人で溢れかえっている。そして、あわよくば「利用する側」や「搾取する側」に回りたいと願う人が多い。それこそ、ディリータのように。

だが、その先にあるものは一体何だと言うのだろう。正義を語る人間の立場によって、正義の形が変わってしまうのと同じように、一歩間違えれば、ウィーグラフやミルウーダのような革命思想に陥ってしまうことだってある。現代的に言うのであれば、社会に復讐を果たさんとする「無敵の人」とでも言おうか。

 

もしかすると、僕がラムザに対してイライラしない最大の理由は、彼が「何者にもなれなかった」人間であるにもかかわらず、何となく彼のことを羨ましいと思ってしまうからかもしれない。

そういう意味では、ラムザこそ現代人が目指すべき理想の姿を体現したキャラクターだと思えてしまうのだ。