箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

漫画におけるダイアローグの位置付けとモノローグ構成の重要性

僕は、映画やアニメといった映像作品を観ることの方が好きで、どちらかと言うと、漫画よりもそういう映像コンテンツをこよなく愛してきた。漫画を描いていながらこんなことを言うのもアレだけど、純粋に1人の消費者としてどちらの方が好きかと言われたら、たぶん映画・アニメの方が好きだと思うし、そう答えてしまうと思う。

じゃあ、なんで漫画なんか描いてるんだと言われそうだけど、僕の中では特に矛盾していない。創作者という観点から見た時に、僕は物語を作ることが好きなのであり、物語を作ることが出来るのであれば、その表現形式は映画でも、アニメでも、小説でも、漫画でも良いと思っている。1人で作業を完結させることができて、尚且つ表現方法が「絵」であるという理由で、漫画を選んでいるだけだ。

 

話が脱線しかかっているので元に戻そう。

映画やアニメが好きだからこそ…というべきか、僕の漫画の作り方は、かなり映画・アニメ寄りであり、あまり漫画っぽく無いんじゃないかと最近思っている。ここらへんの蟠り(わだかまり)を整理することで、自分の漫画表現を一歩前に進めることが出来そうな気がしているので、ちょっと頑張って書いてみたい。

 

 

「映画・アニメ」と「漫画」との違い

僕の個人的な考え方として、映画・アニメと漫画との決定的な違いは、ダイアローグ(会話)の位置付けにあるんじゃないかと勝手に思っている。絵が動くとか、音が付いているとか、そういう表現方法の違いの方がよっぽど顕著だと言えなくもないが、ここで問題にしたいのは、物語の構成というか、構造の問題である。

ちなみに、「アニメーションの脚本術」という本のインタビューにおいて、押井守監督も「脚本で一番大切なのはダイアローグ」と語っており、映像作品におけるダイアローグの位置付けはとても重要だと一般的に考えられている。

やっぱりダイアローグ。一にも二にもダイアローグです。だって、映像作品なんだから。映画は基本的に肉声の世界であって、それさえ決まれば映画はほとんど出来上がったようなものです。

『アニメーションの脚本術 プロから学ぶ、シナリオ制作の手法』野崎透著 84頁

 

そして、映画・アニメといった映像作品を多く見てきた僕にとって、この考え方が骨の髄まで染み付いている。物語は会話によって進むのだ、と。

だから、物語を構成する時にどうしてもダイアローグ(会話)を中心にしてプロットを作りがちだ。何か情報を読者に提示する時も、ついつい会話シーンに頼りがちになる。

 

しかし、漫画でそれをやってしまうと3つの大きな問題が発生する。

 

ダイアローグ(会話)を中心に構成した場合の問題点

まず、ひとつ目の問題が「絵面(えづら)の単調さ」だ。

会話は必ず2人以上の登場人物を必要とし、基本的にはどこか同じ場所に留まって、言葉を交わすことになる。それは学校の教室だったり、街中のカフェだったり、自宅のリビングだったり、移動途中の車内だったりする。要するに、同じような絵がずーっと続く。登場人物に動きもなく、見ている方としては退屈しがちだ。

それは映画やアニメでも同じだろうと思うかもしれないが、映画やアニメにおける会話は全て「音」である。推しの俳優・声優の声だったらいくらでも聞いていられるし、邪魔どころか心地良い場合だってある。ところが、漫画での会話は全て「文字」であり、読者は自分から能動的に内容を理解する必要がある。要するに、絵が単調で退屈なものである上に、読者に対して能動的な内容理解を求めている点で難があるのだ。言うまでもなく、物語コンテンツというのは、ストレスなく、ある程度受動的に内容を理解できるものでなければならない。

 

次に、2つ目の問題として「物語のペースが遅くなる」という問題点も挙げることができる。

映画やアニメにおいては、先ほども述べたとおり会話は「音」なので、それほど邪魔にならないし、1つの物語の中で会話シーンが何割か占めたとしても、視聴者はそれほどストレスではない。しかも、映画・アニメでは自由自在に「時間」を調整できるという強みもある。会話シーンをチラッと一瞬だけ見せる…といったこともできる。だから、会話を繋げながら物語を進めたとしても特に問題はない。

しかし、漫画ではそうはいかない。何度も言うように、漫画における会話は全て「文字」なので、他のコマと同じか、あるいはそれ以上に紙幅を割く必要がある。なので、会話シーンが冗長だからすぐにシーンを切り替えたい…ということがあまり自由に出来ない。他のシーンと同じ時間が流れているからだ。

そして、会話シーンというのは基本的に読者に対する情報提示の役割を担っているので、物語に大きな展開がなく、会話シーンが増えれば増えるほど物語のペースが遅くなってしまう

 

以上の問題点に対しては、別のイベントを描きながら会話をオーバーラップさせれば良いんじゃないかと言う人もいるだろう。

確かにそういう表現手法もあり得なくはない。しかし、それだと誰と誰の会話なのかが分かりづらいし、仮にそれが成立するとしても、「登場人物の心情が伝わりづらい」という問題は解消できない。これが最後3つ目の問題点である。

ひとつ断っておくと、ダイアローグにおいても登場人物の心情を表現することは不可能ではない。ただし、その表現は限りなく間接的・婉曲的になる…という意味だ。

 

ノローグ(一人語り)を中心に物語を構成すべき理由

だからこそ、漫画はダイアローグ(会話)ではなく、モノローグ(一人語り)を中心に構成すべきだと思う。僕は最近になってそのことをしみじみと感じている。

 

ノローグは読者に対して情報を提示しながら、登場人物の感情を表現することもでき、それと同時に物語を動かすこともできる。要するに一石三鳥であり、上記で挙げたような問題点を全て解消することができる。

ページ数や紙幅に限界がある漫画においては、「①読者への情報提示(世界観や設定の説明)」「②登場人物の感情表現」「③物語の進展」を全て別々のシーンで描いている余裕はない。場合によっては、それらを全て一つのシーンで描く必要があり、そうなるとモノローグが欠かせなくなってくる。

 

SPY×FAMILYの例

ここでは例として、近年における最大のヒット作「SPY×FAMILY」の第1話を挙げながら説明してみたい。

 

まず、冒頭の主人公ロイド登場シーン。

外交官が何者かに暗殺され、諜報機関の人間らしき面々が「黄昏」という諜報員に重大任務を任せたいと話している。すぐにシーンは切り替わり、敵国の要人に変装した「黄昏」がスパイ任務をこなしている…という描写へと移っていく。

ここでは、いくつか会話が交わされているが、すぐにシーンが切り替わって、会話自体は短く終わっている。つまり、ここでの一連の会話は「黄昏」という男が「いかに腕の立つスパイであるか」を描写するための補足的な情報に過ぎず、それ自体は独立して重要な意味を持つものではない。シーンの最後に、偽装のために付き合っていた彼女に別れを告げ「用はなくなった」と言ってその場から立ち去る。

この一連のシーンの中で、主人公の属性と性格(スパイ任務のために私情を捨てた冷酷な人間であること)が描写されているが、それを直接説明しているのは最後のモノローグであり、会話はあくまでもイベントを構成する補助的要素である。主人公の仕事内容や属性(スパイ)だけでなく、ちゃんと性格まで表現できているのはモノローグのおかげと言えるだろう。もし、このシーンにモノローグが無かったとしたら、主人公はスパイだという情報しか分からず、主人公の性格については推測するしかない。

 

次に、「偽装家族を作って東国のボスに接触しろ」という、この作品の中で一番の鍵となる重大任務が言い渡されるシーンへと移る。

ここでは、駅で仲間と暗号が記された新聞を交換した後、列車の中で暗号を解読して任務内容を読む…という、THE・スパイ映画とも言えるシーンとなっているが、任務内容のナレーションに合わせて、自分の感情をモノローグでオーバーラップさせており、それによって、今回の任務内容だけでなく、スパイという仕事に対する主人公の感情やスタンスも分かるシーンとなっている。その後に続く新居を探すシーンも同じであり、主人公の感情が不動産屋との会話にオーバラップして語られている。

この短い7ページの中で「主人公に課せられた新たな任務の内容(読者への情報提示)」と「それに対する主人公の反応(登場人物の感情)」と「これからの新しい生活の始まり(物語の進展)」が全て無理なく表現されている。

 

続いて、アーニャとの出会いのシーンへと移る。

ここでは、孤児院の院長らしき男性といくつか言葉を交わすだけで、その大半はアーニャに対する主人公の印象や心情を語ったモノローグがメインとなっており、その後のアーニャとの会話も短く言葉を交わすだけで、そのほとんどがアーニャの可愛らしい仕草や表情(主人公の足にしがみつく、トタトタと走っていって隠れる、言葉を間違えて赤面する、捨てられそうになってポロポロと涙を流す、主人公の腕の中でスヤスヤと眠る)によって表現されている。そして、破天荒なアーニャに対する感想・心情はやはりモノローグによって補完されている。

この一連のシーンにおいて、「アーニャが超能力者である」という情報を提示するだけでなく、会話以外の仕草や表情を駆使することによって、アーニャの性格や魅力も描写されており、それに対する主人公の心情もモノローグによってしっかりと表現されている。

 

その後に続くのが、「仲間にカンニングの協力を依頼するシーン」と「留守番をしているアーニャがスパイ道具を使って平文を通信してしまうシーン」である。起承転結で言うなら「転」の部分と言えるだろう。

ここで、第1話で唯一と言っていい「会話だけのシーン」が挿入される。仲間であるフランキーから入試問題を受け取り、アーニャの素性について言葉を交わすシーンだ。要するに「アーニャが何度も里子に出されている厄介な子ども」という情報を提示しているだけのシーンなのだが、会話自体は2.5ページほどで早々に切り上げ、すぐにアーニャがスパイ道具で通信を発信するシーンへと移り、物語を動かすことが意識されている。

ちなみに、モノローグではないが、過去の回想シーンをチラっと見せることで、「施設の大人たちに支配された生活を送ってきたアーニャの孤独な心情」が垣間見えるようになっている。先ほどの「4回も里子に出されている子ども」という情報と相俟って、アーニャのことを掘り下げる重要なシーンだ。

 

その次が、第1話のハイライトとも言える「アーニャ救出シーン」だ。

19ページにわたって、主人公が敵国の悪者に捕らえられたアーニャを救出し、悪者たちをボコボコにする様子が描かれているが、主人公の過去やスパイになった動機などがモノローグで語られている。

その後、アーニャを救出して2人で家に戻るシーン、試験シーン、合格発表シーン、三者面談の通知が届くシーンへと移っていく。ここでも会話は必要最小限に抑えられ、アーニャが主人公の足にしがみつく、合格したアーニャを抱き上げる、疲れ果ててソファで寝ている主人公に寄り添って寝る…といった印象的な絵で物語を動かしている。

 

以上のように、SPY×FAMILYの第1話を分析したとき、次のことが分かる。

まず、冗長な会話をダラダラと続けず、早めに切り上げるか、会話にモノローグをオーバーラップさせるとか、何かキャラを動かすとか、単調なシーンを極力避けようとしているのがよく分かる。同じ場所に留まって会話をしているのは、フランキーとの売店での会話シーンぐらいだ。それ以外では、ちゃんとモノローグによって登場人物の心情を補完している。

そして、常に動きの中でセリフを発しているので、物語のペースが遅くなるということもない。シーンが小刻みにテンポよく移っていくので、冗長に感じる部分も少なく、最後まですんなり読み進めることができる。

 

終わりに(漫画における構成について)

何というか、漫画は「いかに無駄なものを省き、必要最小限の描写でどれだけ上手く伝えるか」みたいな勝負なんだと思う。実際のところ、読みやすい漫画というのは本当に無駄がないし、冗長な会話をダラダラ続けたりはしない。

たぶん、僕のように映像コンテンツが好きな人(ダイアローグを中心に考えてしまう人)は、主人公の魅力は会話によって引き出されると考えている節があって、自分の頭の中にある物語の流れをダイアローグで構成したがる。だけど、それは本来映画・アニメのようにある程度尺に余裕のあるコンテンツだから成立することであって、漫画だとそんな余裕はない。そういうものを削ぎ落としていく必要がある。

つまり、無駄なものを削ぎ落として最低限必要な要素だけで構成されたコンテンツが漫画であり、若干説明不足な部分をダイアローグで補完したものがアニメ…ということになるんだろう。

 

んで、こういう「ダイアローグ脳」から脱する方法なんだけど、ひとつは「シーン構成から考え直す」ことなのかなーと思う。

何というか、僕は、まず初めに大まかな流れを考え、それを各シーンに分解したあと、セリフという文字情報で構成しようとしている。つまり、「このシーンにはこういう事実があるよな」「その次のシーンではこういう事実を伝えないとな」という、客観的事実をピックアップしたうえで、それをいったん言葉にする…という作業をしている。

そして、ここで考えられたセリフは「モノローグ」か「ダイアローグ」のどちらかになるわけだけど、「物語はダイアローグで動く」という意識が強い僕は、どうしても長々とした会話シーンになりがちだ。しかも、その根底には、「ダイアローグを積み重ねていけば、その過程で主人公の属性や性格なども伝わるはずなので、ダイアローグは客観的事実を提示すればいい」という考えがある。だから、自分が考えたオリジナルの設定などを「言葉」で説明したがる(かつ、それで十分だと思ってしまう)。

 

だけど、たぶんこの出発点自体が間違っていて、本当に伝えなきゃいけないことは「客観的事実」ではなく、それに対応した「キャラクターの心情」であり、その心情こそ言葉にしなきゃいけないのだ。もし、そうだとすると、客観的事実をダイアローグにしている余裕なんか無い。そこは絵で見せなきゃいけない。あくまでそれを踏まえたキャラの心情をモノローグにするわけだ。要するに、読者は絵を見て客観的事実を把握し、モノローグを読んでキャラの心情を補完・把握している…ということになる。

そう考えていくと、大まかな流れ(話の出発点やオチ)を考えたあとは、「客観的事実を伝えるためのイベント(絵)」(例えば、主人公がスパイであるとか、女の子が超能力者である…といった客観的事実を伝えるためのイベント)を先に考え、そこに対応した「キャラクターの心情」をモノローグとして考える(例えば、「おれは 任務のために人並みの幸せなんて捨てた」とか)…という構成にしなきゃいけないと考えている。ダイアローグはあくまでも「客観的事実を伝えるためのイベント(絵)」の要素でしかないということだ。これが、映画・アニメと漫画におけるダイアローグの位置付けの決定的な違いである。

 

それこれも、伝えたいことが掘り下げられていなくて、ぼんやりとした客観的事実に終始しているから、表面を撫でただけのダイアローグになってしまうんだろうな。反省。もっと精進しなくては…。