箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

自分だけの作品テーマについて考えてみる。

昨日に引き続き、絵の個性って一体何だろう・・・って話をします。

 

昨日の段階では、個性っていうのは「自分だけのこだわりポイントを持つこと」なんじゃないかと考えていたんだけど、そこからさらに考えに耽っていくうちに、こだわるポイントを探す前に「自分だけのテーマを持つこと」が先だろうと思うようになった。

 

よー清水氏の「絵がふつうに上手くなる本」、ハンス・P・バッハーの「Vision ヴィジョン ーストーリーを伝える:色、光、構図」、加藤オズワルド氏の「あなたの絵に物語性を与える方法」などでも触れられているとおり、伝わる絵というのは、その人の中にあるテーマ性が視覚的・効果的に表現されている絵のことを指すのであって、デッサン力があるとか無いとか、そういう問題ではない。

 

言わんとすることが「響く」のは、伝えようとする内容と、その伝え方が一致したときだ。これこそが、ビジュアルコミュニケーションのすべてだ。

Vision P.20

 

つまり、まずその人の中に伝えたいと思う「テーマ」があって、そのテーマと伝え方が一致したときに、初めて見る人の心に響く。どう表現しようかと悩む前に、そもそも「これを伝えたい」というテーマがあるべきなのだ。

そして、その「伝え方」が斬新だったときに、その表現は「新しい」と受け止められて感動へと繋がる。例えば、漫画のカイジには、「極限状態における人間の欲深さ」というテーマがあって、「ざわざわ・・・」というオノマトペ表現が組み合わさることにより、人々の心に突き刺さった。テーマと合っていたし、その伝え方も斬新だったのだ。

 

じゃあ、前提となるテーマって一体何だろうって話なんだけども、それはたぶん人間の負の側面を掘り下げた方が良いんだろうなという気はしている。

僕は今年の4月頃の時点において、「ワクワクとするもの」「ほっこりと優しい気持ちになれるもの」をテーマにしたいと口にしていたけども、これだけではあまりに抽象的過ぎるし、もっと言うなら、あまりにも理想主義的過ぎるというか、現代漫画のトレンドにも合っていないと思う。

pochitto.hatenablog.com

 

すなわち、現代漫画に出てくる主人公は、ほぼ全員が「苦悩」と「狂気」を抱えている。単に「悩んでいる」「葛藤している」というだけでなく、時に漫画の域を超えた「愚かさ」や「凶暴性」を見せることがある。平和や正義のために勇気を振り絞って戦う英雄型の主人公が理想とされていた一昔前の少年漫画では考えられないんだけど、これが今の漫画だ。隠すことなく、ありのままの人間をリアルに描こうとしている。

 

そんなふうにトレンドが移り変わっている現代において、かつての宮崎アニメのように、一点の曇りもない清純な主人公を描いていたら、「こんな奴は現実世界にはいない」と言われてしまうだろう(その当時ですら言われていたのだから)。

というか、宮崎先生のように、群を抜いた世界観を持ったクリエイターが、そういう主人公を描けば、それなりに絵になるかもしれないが、僕が同じことをやっても、大して人間性を掘り下げることもできずに、とっても浅い話に終始することになる。それこそ、「宮崎駿の二番煎じ」と言われて終わりだろう。

 

だからこそ、人間の負の側面をテーマにした方が良い。同じことをやっていても仕方ないんだ。その限りにおいて憧れは捨てよう。

 

んで、それは何かと言われたら、精神的に拘束されている人間の苦しみとか、息苦しさとか、そういう境遇にある人間の内なる葛藤こそが僕のテーマだろうと思う。僕が漫画を通して世の中に提供できるテーマはおそらくこれ以外に無い。これ以外のことをやろうと思っても、ほぼ確実に上手くいかないと思う。

例えば、「恋や部活に青春を懸ける若者たちの瑞々しい感性」とか、「個性豊かなキャラクターたちが見せる笑い」とか、そんなものを描いてどうすんだと。もちろん僕には描けないし、別に僕じゃなくていい。僕の使命はそこにはない。

 

そして、そのテーマを伝えるうえで、僕がこだわるべきポイントはどこだろうかと悩む。これが正しい悩み方だと思う。

 

まだまだ先は長いし、まだまだこれからだ。