箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

漫画制作において「自分をさらけ出す」ということ。

noteに投稿されている漫画を色々と読んでいて、とあるエッセイ漫画が目に止まった。

 

それはいわゆる創作系のエッセイ漫画で、その人は漫画を描き始めた当初、純粋に「楽しい」という気持ちで作品を描いていたものの、そのうち他人の評価を気にするようになり、精神的に追い詰められて漫画が描けなくなってしまったという。そこで、専門家のカウンセリングを受けるようになり、時間をかけて自分の気持ちと真摯に向き合っているうちに、再び漫画が描けるようになった・・・という内容だった。

その理由について著者は、「カッコつけるのをやめて、自分をさらけ出すようになってから気持ちが軽くなったし、漫画を読んでくれる人も増えた」…と述懐されていた。

 

ー「自分をさらけ出す」

 

おそらく、この人だけじゃないと思う。伸びている人たちは漏れなく全員が「自分をさらけ出している」。本当の意味で、そこにしか共感は生まれないし、僕がその人の漫画に感銘を受けたのも「この人は自分をさらけ出して、本心を語っている」と思ったからに他ならない。

そして、こうも言える。さらけ出された「自分」の中に「弱さ」や「傷」が伴って、初めて読む人の心に刺さるんだろうと。例えば、「私はこんなにもパーフェクトな人生を歩んできました!今まで一度も失敗や挫折を経験したことはありません!」という人に共感なんて生まれるだろうか。おそらく鼻につくだけだし、何よりリアリティに欠ける。「私はこんなにも弱い人間なんです」という弱さの告白にこそ、人々は共感を覚え、思わずその人(その主人公)を応援したいという気持ちが芽生えるのだ。僕はそう思う。

 

…ただし、それは頭では理解できたとしても、実践するとなると果てしなく難しい。少なくとも今の僕にとっては。

 

生まれ育った特殊な家庭環境のこととか、周囲の同級生たちと上手く馴染めなかった学生時代とか、10年以上にわたって患っていた精神疾患の話とか、その体験談をエッセイ漫画にするか、あるいは、その体験談を少しアレンジしてストーリー仕立てにでもすれば、中には共感(同情)してくれる人もいるかもしれない。

しかし、もし仮に否定されたら、たぶん僕は自分の心を保てないと思う。ボロボロになって膝から崩れ落ち、そのまま液体となってアスファルトの上に広がり、照りつける太陽光の餌食になって蒸発して消える。んで、そのまま戻らない。廃人のように残りの人生を過ごすんだろう。「誰にも理解されない虚しい人生だった」と恨み節を口にしながら。

 

そもそも、僕がSF・ファンタジーを好んで描くのは、そういった現実の問題から逃げられるからだ。

だけど、それゆえに共感されづらい。とてつもなく新鮮なアイデアを出せる人か、宮崎駿監督のように世相を反映したような突出したテーマ性のある作品を描ける人だったら、「アメージング!」「天才だ!」と世間が絶賛してくれると思う。だけど、僕のように二番煎じの平凡なアイデアしか出てこない奴は、どんなに頑張っても「ありきたり」「どこかで見た展開」と鼻で笑われ、自分自身をさらけ出せていないために「リアリティに欠ける」「キャラに共感できない」とこき下ろされる。そういう悲しい運命を背負っている。

 

でも、だからといって、自分に描けるものは何も無いとか、自分には漫画を描く資格が無いとか、そこまで自分のことを蔑んでいるわけではない。「自分自身をさらけ出したエッセイ漫画」とか「それに準じるようなストーリー漫画」が描けないと言ってるだけであり、今は肩の力を抜いてゆるーい趣味漫画でも描こうと思っている。

それも現実逃避と言われればそれまでだし、誰にも伝わらない可能性だってもちろんある。だけど、まず自分自身が「面白い」と思わなければ何の意味もない。感動を積み重ねていって、その過程で「さらけ出したい」と思うなら、改めてその気持ちを漫画にすれば良い。今はそういうふうに思っている。

 

P.S.

昨日、背景資料を撮影しに出かけた時に目に飛び込んできた空。

夏にしか見れないような、心奪われる幻想的な空だった。