箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を視聴した感想(ネタバレあり)

本日、「君たちはどう生きるか」を見に行ったので、内容と余韻が心の中に残っているうちに、感想を書き留めておこうと思う。なお、完全に僕個人の解釈によるものなので、その点だけあらかじめご了承頂きたい。

 

※注)なお、本記事には、映画本編のネタバレが含まれているため、未視聴の方はここでブラウザバックしてください。

 

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とりあえず、この作品が宮崎監督自身の自伝的作品ということは分かったのだけど、おそらく大半の人にとって、心底どうでも良い内容なんだろうなと思う。

 

戦時中に父親が経営していた軍需工場(零戦の風防を生産していた)のおかげで生活が潤っていたことに対する罪悪感とか、空襲で逃げ惑う最中、助けを求めてきた親子を見捨ててしまった後悔とか、女遊びが激しかった節操のない父親への嫌悪感とか、長年にわたって病床に伏してていたためにほとんど世話をしてもらったことがない母親への満たされぬ愛とか、宮崎監督の過去のインタビューや対談を読んだことがある人にとっては、本作が宮崎氏の内なる孤独が投影された作品であることを窺い知ることができるし、そういう観点からこの作品を咀嚼することができるけども、それらを知らない人にとっては、本当にちんぷんかんぷんだと思う。

 

そもそも、クリエイターの内情を知っていないと楽しめない作品なんて普通はあり得ないし、そんなものに対してお金を払わせるということ自体が非常識といえば非常識である。事前の宣伝をしなかったのは、それが理由か…と僕は納得した。日本アニメ界の巨匠・宮崎駿だからこそ成立するのであって、それ以外だったら絶対に成立しない。僕みたいな宮崎駿ファンがいるから辛うじて成立しているだけである。僕は楽しめたけど、そうじゃない人(トトロとか千と千尋の神隠しのような映画を期待していた人)は少し気の毒だな、と思う。

 

まあ、それはさておくとして、この作品は「ファンタジーの世界に逃避してきた人生に区切りをつけて、アニメーションの未来を後進に譲り、自分自身は現実世界で人間との折り合いをつけて生きていこうと決意した作品」ということなのかな、と僕は解釈した。

 

前述したように、宮崎駿にはいくつかの心の傷があり、トラウマがあった。そして、いつしかそれは人間の可能性への問いかけとして、表現活動の原動力へと変わっていった。宮崎駿がファンタジーに対してこだわりを持つのも、人間の可能性を信じたいという秘めたる願望に基づくものであることが何となく伺い知れる。

『現実を直視しろ、直視しろ』ってやたらに言うけども、現実を直視したら自信をなくしてしまう人間が、とりあえずそこで自分が主人公になれる空間を持つっていうことがファンタジーの力だと思うんです。

『ユリイカ』2001年8月増刊号「総特集=宮崎駿『千と千尋の神隠し』の世界」28頁

 

ただ、それは逆にいえば、人間の脆さでもある。例えば、宮崎駿は戦闘機の造形に対して異常なこだわりを持ち、嗜好の対象としていたけれども、それが人殺しの道具として戦争に用いられているにもかかわらず、自身は反戦を訴えるなど、自身の政治的主張と個人的嗜好の間に大きな矛盾が生じていた。また、自身の作品において、やたらと自然美を問いているけども、氏は多量の排気ガスを垂れ流す外車を愛用している。これも矛盾である。

つまり、ファンタジーの世界では、自分が主人公になれるし、自分の好きなものを好きなだけ追求できる一方で、現実を見つめることが出来ない弱い自分を覆い隠すための逃避行動と捉えることもできる。そういう自己矛盾を常に抱えることに繋がってしまったわけだ。

 

ある意味で、宮崎駿はそういう自己矛盾と戦い続けてきたクリエイターだった。

 

そして、本作品において宮崎駿監督は、そういったファンタジー世界に逃避する自分自身と決着をつけ、氏の作品の中で唯一現実を直視しようとしたのかもしれない。

詳言するに、宮崎駿監督の作品に登場する主人公たちは「人間が綺麗すぎる」と批判を浴びせられてきた。ナウシカ、パズー、アシタカ、キキ…等々。純粋無垢で、潔白で、真っ直ぐで、正直で、愚直で。汚れを知らないキャラクターたちに対して、捻くれた批評家たちは「現実世界にこんな少年・少女はいない」「あまりにも現実離れしすぎている」と厳しい言葉を投げかけた。しかし本作は少し違う。主人公・眞人は悪意のある嘘を付くキャラクターだった(気を引くための自傷行為に及び、それを隠匿した)。

 

僕の記憶が確かであれば、過去の宮崎作品の主人公の中に、こんな利己的な理由で嘘をついた主人公は居なかったと思う。主人公が嘘を付いたとしても、周囲の人間を安心させるためだったりだとか、何かしらの正義の理由があったはずだ。

僕は、本作で描かれている「自傷行為」は、宮崎駿にとっての「創作」ではないかと勝手に解釈している。自分の本心を覆い隠し、周囲の人間たちの気を引くためのパフォーマンスという意味で。それを宮崎駿は「悪意ある嘘」と評した。宮崎駿にとっての現実は、ファンタジー世界の中にいる理想の主人公たちではなく、本当は「少年時代の自分」だったからだ。

 

だから、最後は、自分の言葉で語ろうと思ったんじゃないだろうか。父母への想い、人間社会への想いを。

ちなみに、僕の胸が思わず締め付けられたのは、不思議なファンタジー世界から母親・ナツコと共に帰還した時、主人公・眞人はファンタジー世界のことを覚えており、そのことをアオサギに指摘されるシーンだ。普通は覚えていないはずなのに、なんでお前は覚えているんだ、と。僕はこのシーンを見て、ファンタジー世界から身を引こうとしている宮崎駿の哀愁を感じてしまった。ああ、名残惜しいんだな、と。そんな簡単に忘れることなんて出来ないんだな、と。だけど最後にアオサギは言う。「いずれ忘れる」と。

 

この作品を見た僕の感想はこんな感じだ。宮崎駿監督に対しては、非常に僭越ながら、「長年にわたって本当にお疲れ様でした」「たくさんの夢と感動をありがとうございました」と言いたい。

最後に、僕は宮崎駿監督に対して、とてつもない尊敬と憧れの念を抱いているけども、創作活動に打ち込むようになってから分かった。ああ、僕は宮崎駿にはなれないんだな、と。当たり前だけどね。だけど、それで良い。自分の表現を追求せよと、宮崎駿監督は仰っているんだと思う。まさに「ワレヲ学ブ者ハ死ス」である。