箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

作家性とか、自分の中にある「好き」とか。

「地獄楽」を連載している漫画家の賀来ゆうじ先生は、かつて自分の作家性に悩んでいたものの、当時アシスタントをしていた藤本タツキ先生と趣味が合い、「自分が好きなものを好きな人がちゃんといる」と気付くことが出来て、自分に自信が持てるようになったという。

 

僕は、このエピソードを聞いて、ふと思ったことがある。

 

たぶん、自分が「好き」と思っているものを、自分と同じように「好き」と思っている人は、賀来ゆうじ先生の趣味に限らず、誰にでも居る。どんなにマイナーな趣味の人にでも居る。僕にだって居るはず。そして、その趣味を言葉にして話せば、「あー分かる分かる。俺も好きだよ」と共感してくれる人はきっと見つかる。

しかし、一次創作の漫画でそれを表現しようとすると、人によって、その「好き」の形やイメージは違うので、受け手のイメージとズレることが往々にしてよく発生し、それが伝わったり、伝わらなかったりする。しかも、漫画では、そこにオリジナリティを付加しなければならないし、初心者の頃は画力も伴っていないので、余計に「ズレ」が頻発することになる。

(逆に、二次創作が共感されやすいのは、既に形やイメージが共有されており、ズレが発生しづらいからだ)

 

そして、この状態がずーっと続くと、「自分の感性は世間とズレているのではないか」「自分が好きなものを好きな人なんて居ないんじゃないのか」と自信が持てなくなり、引いては自分の作家性に迷いが生じる。賀来ゆうじ先生が陥ったのはそういう迷いだったんじゃないだろうか。

だとすると、漫画家に求められていることは一つで、自分の中にある「好き」の内容を変えることではなく、その「好き」の形を、世間の人が共感できるレベルにまで練磨することだと思う。つまり、伝わっていない最大の原因は、その人の「好き」がちゃんと表現出来ていないことにある。

 

僕はずーっとこの点を勘違いしており、自分の中にある「好き」が世間とズレていて、自分のことを理解してくれる人なんて居ないと思っていた。実際のところ、僕の趣味は人と少し違うし、ちょっとズレていると言えばそうかもしれない。けど、自分の中にある「好き」と向き合い、それをどう表現したら伝わるのかという点を真摯に追求していけば、いつの日かそれが伝わる日が必ず来ると信じている。

 

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んで、その話題と少し関連するんだけど、漫画界隈では「絵の練習ばっかりしていないで、さっさと作品を描け」という意見が多く、ひたすら練習している人を揶揄する傾向がある。僕もその考え方には半分以上賛成であり、「本番に勝る練習はない」「実際に作品を描かないと自分の描きたいものは分からない」というスタンスで漫画を描いてきた。そして何より、「練習だけして本番を描かずに終わる人」にはなりたくなかったという思いもある。

 

ただ、この考え方にも一長一短があると思うようになった。と言うのも、「個性で勝負するタイプの人」だったら、さっさと本番の作品を描いた方が良いと思うけど、「ちゃんと画力を磨かないと伝わらないタイプの人」もいて、そういう人は作品を量産して爆死するよりも(自信を喪失するよりも)、ちゃんと自分の作品を冷静に振り返り、練習を重ねていった方が良いんじゃないかと今は思っている。

僕はこれまでにいくつか作品を描いてきて、個性で勝負できるタイプの人間ではないと悟ったし、単純に自分の描きたいものが表現出来ていないせいで、全く伝わっていないと思い知った。まあ早い話が下手なのだ。僕のようなタイプはどんなに本番の作品を描きまくろうが、表現力が乏しいので一生伝わらないまま終わる。

 

つまり、最終的にちゃんと作品を仕上げるという目標さえ見失わなければ、そこに至るまでの道程は人によって違っても良い。作品を描きまくることによって辿り着く人もいるし、ちゃんと練習することで辿り着く人もいる。そういうことなんだろうなーと思う。