箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

働かないおじさんが無敵の人の受け皿になる社会

まだ会社員をやってた頃の話。お得意先の会社にいわゆる "働かないおじさん" がいた。

まあ、実際のところ、その人が働かないおじさんかどうかは知らない。本当はめちゃくちゃ働いている人なのかもしれない。なので、今回の話は、私の中で勝手にそう思っていた…というだけの話である。

 

働かないおじさんの実態

その人は、決まって4〜5月頃にフラッと現れる。ちょうどその時期に、担当者が入れ替わるので、新任者を引き連れて挨拶にやってくるというわけだ。まあ、会社ではよくあることだと思う。

 

ただ、個人的には、こういった引き継ぎの挨拶は、無駄以外の何物でもないと思っていた。業務の引き継ぎなんて、そっちで勝手にやってくれればいいし、挨拶と言っても、小1時間ほど雑談をするだけである。

要するに、何の合理性・生産性もない無駄な時間であり、こちらとしては「担当者が変わりました」という連絡をよこしてくれればそれで事足りる。また、小1時間ほど雑談をしたぐらいで、新任者との間に固い信頼関係が即座に構築されるはずもなく、結局はその後の仕事のやり取りの中で信頼を深めていくしかないし、もっと言うなら、信頼関係を構築したところで、1年後には担当者が変わってしまう。それなら、はっきり言って関係性を深めていくだけ無駄である。

(人間関係を構築する重要性を否定しているわけではないが)こういう無駄なことを仕事だと勘違いしているおじさんが未だに世の中にはたくさんいる。

 

しかも、4〜5月というのは、株主総会前の監査期間中であるため、クソ忙しい。

猫の手も借りたいぐらいの超多忙期であり、そんなクソ忙しい時期に、「最近ゴルフにハマってまして…」などと、本当にクソどうでもいい雑談をしに来られると、頭の血管が千切れそうになるぐらいイライラする。

つまり、その実態は、やることがなくて暇を持て余しているおじさん社員が、外出する口実を作るために新任者を引き連れて、挨拶という名の暇潰しをしているだけである。そんな暇を持て余している時点で、私にとっては働いていないのも同然であり、その人のことを「働かないおじさん」と認定したのはそれが理由だ。

 

ちなみに、雑談をするだけならなんとか我慢できなくもないが、タチが悪いことに、その働かないおじさんは、会う回数を重ねても私のことを覚えていない。その事実がさらに私をイライラさせる。

私は、上長に付き添って、挨拶の場に同席しているだけであり、基本的にずっと喋っているのは上長なので、あまり記憶に残っていないのかもしれないが、とはいえ、私も名刺交換をしているし、頑張って話題も振っている。

 

…しかし、

2年目、3年目と回数を重ねても、顔を合わせるたびに、その働かないおじさんは「これが初対面ですよね?」と名刺を差し出してくるので、私は苦々しい思いをひた隠しながら、仕方なく名刺を差し出す。そして、こう思う。「相手の顔と名前も覚えられない挨拶に何の意味があるのか?」と。

 

合理化・効率化が進む社会(現代社会の底)

閑話休題

 

昨今の "無敵の人の問題" を受けて、無敵の人の受け皿になるようなコミュニティの重要性が盛んに叫ばれている。

そして、今話題の成田教授によれば、「町内会の会合」とか「会社の飲み会」とか、あるいは「上司による意味のない雑談」とか、全く何の合理性もなく、一見すると無駄以外の何物でもない人的繋がりが、実は大事だったのではないかと説いている。

 

しかし、その一方で、社会は合理化・効率化の道を進んでおり、その傾向は会社も同じである。

例えば、富士通では、黒字であるにもかかわらず、50歳以上の幹部社員および定年後再雇用従業員併せて3000名以上の早期・希望退職者を募集している。

www.tsr-net.co.jp

 

要するに、働かないおじさんはこれからどんどん排除され、意味のない無駄な人材・業務はどんどん省かれていく。もし、このまま合理化・効率化の道をひた進めば、成田教授の言う "一見すると無駄と思えるコミュニティ" は過去の遺物と化すだろう。合理的ではないし、誰も求めていないからだ。

「相手の顔も覚えられない挨拶に何の意味がある?そんなもの要らん。無駄だ。無くせ。そういうことを仕事だと思っている社員も邪魔だから退職させろ」…というのが現代感覚である。映画を2倍速で見る、漫画を飛ばし読みする…という若者の傾向もこれと無関係ではないだろう。

 

そして、この傾向は、現代社会の底にぽっかりと穴を空けてしまったのだと思う。社会の底が抜けて、社会から見放された人が徐々に穴に落ち始め、それは取り留めのない濁流となって流れ始めたのだ。

 

働かないおじさんと無敵の人はどこにいくのか?

そして怖いことに、そういった底の抜けた穴から落ちてしまった人たちについて、社会から退場し、どこかに消えてしまったと勘違いしている人が多い。

いや、正確に言えば、社会の底が抜けていることすら知らないと言うべきか。一人で年金暮らしをしている老人や、何十年も引きこもりの生活をしている人に定期的に顔を合わせる人なんて限られている。知らなくて当然だし、はっきり言って私も知らない。

しかし、そういう人たちは確かにこの社会に実在し、私達と同じ空気を吸い、私達と同じ空を見ているのである。

 

昔、世にも奇妙な物語にこんな話があった。

 

ある日突然、街中に巨大な穴が出現した。その穴は、底の見えない漆黒の闇を携えており、人々はその穴を訝しげに眺めていた。これは神のいたずらか。

そんな時、少女が誤ってクマのぬいぐるみを穴に落としてしまう。人々がクマのぬいぐるみの行く末を見守るが、何の音沙汰もない。どうやら、底無し穴のようだ。

すると、群衆の1人がおもむろにゴミを穴に投げ捨てた。その様子を見ていた者が、1人また1人と、続けてゴミを投げ捨てる。しかし、何の音沙汰もない。ついに、人々は当たり前のようにゴミを投げ捨てるようになり、危険な産業廃棄物まで投棄されるようになった。

人々が穴にゴミを投げ捨てるようになってから、しばらくが経ったある日のこと。何かが空から降ってきた。それは、少女が穴に落としたクマのぬいぐるみだった。

 

正確ではないかもしれないが、こんな感じの話だ。

社会から排除されたモノが、報いとなって社会に跳ね返ってくることの暗示(あるいは、人間の強欲・傲慢さの報い)であり、今になって思えば、未来を予言していたようにも思える。

 

もし、働かないおじさんが社会から排除され続けるのであれば、おそらく、そのうちの一部は無敵の人となり、負のエネルギーを伴って社会に跳ね返ってくるだろう。彼らは社会から姿を消したのではなく、確かにこの世に実在しているからである。

そして、そうなのであれば、社会に居場所をなくした無敵の人の受け皿になるのは、間違いなく、働かないおじさんだと思う。何の意味もなさない無駄な雑談が、同じ無敵の人同士であれば無駄にならないからだ。

 

現代社会の底に空いてしまった穴を早急に埋める必要性に迫られているのは間違いない。さもなければ、報いとなって空から降ってくる日はそんなに遠くない。