箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

ネームが頓挫してからの日々を述懐していく。

ネームが頓挫してからというもの、今までの人生を悲観的に振り返ったりして精神的に辛い日々が続く。思えば、子どもの頃から否定ばかりされてきたなーとか。

 

僕はありのままの自分を誰かに認めてもらえた(受け入れてもらえた)という経験が極端に少なくて、誰かに受け入れてもらえる時というのは、その人(あるいは、その人達が属するグループ)の考え方やノリに自分から擦り寄っていった時だけだった。自分で言うのも何だけど、僕はその場の空気に順応できる器用さを持ち合わせていて、いくらでも道化(ピエロ)を演じられる奴だった。太宰治の「人間失格」には、主人公(葉蔵)が幼少期にピエロを演じていた描写があるけれど、僕にはあの感情がよく分かる。たぶん、あれは演技性パーソナリティ障害を抱える少年だと思う。

 

んで、おそらくだけど、芸術や創作を志す人というのは、少なからず葉蔵のような性分を隠し持っていると僕は思っている。誰にも理解されない自分を隠しながら、表面的には「普通の人」や「社会に馴染んでいる自分」を演じている。言葉は悪いけれど、そういう仮初めの自分に擦り寄ってくる人たち(そういう仮初めの自分を本当のワタシだと勘違いしている人たち)のことを「本質が分かっていない単純な奴」と蔑む心を抱えながら。だけど、本当の自分をさらけ出せば否定されるのが分かっているので、常に道化を演じる必要に迫られ、その結果どんどん一般社会との乖離が進んでいく。葉蔵のような性分を抱える芸術家たちは、そういう絶望や矛盾を噛み締めながら、生きていく宿命を背負わされている。

 

ちなみに、葉蔵には竹一という「本質が分かる友人」がいた。道化を演じる自分に対し、「本当の君はそうじゃないだろ」と諭してくれる友人が。これは、とてつもない奇跡であり、とてつもない幸運だと思う。若い時分にこういう友人に巡り会える人はそうそう居ない。だって僕には居なかったから。今までの人生をトータルで振り返っても果たして居ただろうか。「君はピエロを演じているだろ」「本当は傷ついているんだろ」と僕の思想を見透かしてくれる奴が。ほとんどは、そういう仮初めの"ワタシ"に笑顔で擦り寄って来て、笑顔で顔面を殴っていくような奴らばかりだった。

 

僕はそういう人生が嫌だったから、ピエロを演じるのをやめた。だから、一般社会との乖離は漸次的に解消されつつある。けど、「ありのままの自分が否定される現実」は何も変わらない。ピエロを演じるのをやめたところで、全体とズレていることには何ら変わりないのだから。漫画などの創作活動をするようになって、今度はこの現実に真正面から向き合う必要性に迫られ、ピエロを演じるよりも遥かに辛いんだなと分かった。

 

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前回の記事でも言ったけど、否定され続けても自分の好きなものを続けられる人はある種の才能だと思うし、その人こそ本当の天才だと僕は思う。いかなる同調圧力にも屈せず、わが道を行く…という孤高の芸術家。紛れもなく僕が欲しかったのはそういう強さだった。

つまり、ピエロを演じるのをやめて、ありのままの自分で居ることを決意した僕に課せられた次なる課題は、社会との関係で自分という個をどう維持するか…という問題なんだろう。おそらくこの課題は、僕が創作活動を続けようが続けまいが、僕の人生に一生つきまとう問題であり、この問題から逃げることは出来ないと思うし、この課題をクリアしないと、僕の人生に幸福は訪れない気がしている。

 

最後に、創作活動はどこまでいっても孤独なんだなと思う。身近な存在として、妻に意見や感想を貰うことはできるけれど、本質を分かち合うことはできない。結局最後には全部自分一人で解決しなくちゃいけない。辛いな。ほんとに。誰かと分かち合える日は来るんだろうか。僕にも。葉蔵と竹一のように。