箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

僕が苦手な「音」にまつわる話

今日は7ページ進んで53ページまで完了した。

 

今日修正していたページは最初の段階で作画がほぼ完成しており、手直しを加えるというよりかは、より完成度を高めるという感じだったので自分が思っている以上にサクサク進んだ。

これで残り2ページ。少しだけ面倒臭い背景作画があと2コマほど残っているけど、おそらく1日で終わらせられると思うので、明日には最終ページまでいけると思う。

 

で、その後のスケジュールについては、自分の中でもう既に決まっているんだけど、修正作業がひとまず完了する明日の段階で、それをブログで書きながら整理しようかなと思う。

 

原稿修正作業についてはそんな感じで。

 

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さて、話題を変えて、僕の苦手なことについてちょっと書く。

 

僕は「音」に敏感であり、些細な物音でも一度気になり出すと、それがずーっと気になってしまって、イライラして眠れなかったりする。

 

過去には、ゴォというファンの音がうるさいと感じてしまい、空気清浄機を壊してしまったこともある。

 

パソコンや液タブの排熱ファンの音も苦手で、パソコン作業中はノイキャンヘッドフォンが必須だし、猫用の給水器のチョロチョロと水が流れる音も嫌いで、必ずリビングに繋がる扉は閉じるようにしている(給水器がリビングにあるので)。

また、僕が住んでいるアパートは壁が薄いので、しょっちゅう隣人の生活音(話し声)が聞こえてくるんだけど、正直この音も大嫌いである。深夜に頻繁に話し声が聞こえてきたときは壁を叩いてやろうかと思ったことも何度もある。

 

要するに、こういう「ちょっとした音」が嫌いなのだ。

 

逆に、大きな音は何とも思わなかったりする。パトカーや救急車のサイレンの音が聞こえてきても何とも思わないし、隣の部屋から大きな犬の鳴き声が聞こえてきても別にうるさいと思わない。聞こえるか、聞こえないか、微妙に小さい音が妙に気になってしまう性分なのだ。

なんていうか、大きな声で叫んでいる人よりも、ヒソヒソ話をしている人の方が気になってしまう・・・という感覚に近いかもしれない。「なんだよ。ハッキリ喋れよ!」と言いたくなってしまう。

 

んで、ついこないだの話なんだけど、寝ている時に「ギシギシ」と床が軋むような音が聞こえてきて、その音がどこから聞こえてくるのか分からず、眠れなくなってしまったことがあった。

しばらく、音の出所を探っていると、その音は床が軋む音ではなく、「雨水がバルコニーの手摺にぶつかる音」だということが判明した。どうやったら、雨音を床が軋む音に聞き間違えるんだとツッコみたくなるけど、その時の僕にはそう聞こえたのだ。

 

すると、それまでずっと「うるさい」と思っていたのが、急にどうでもよくなり、そのまま眠りに落ちてしまった。雨音は僕にとっては心地の良いASMRみたいなもんなのかもしれない。こういう風に「ちょっとした音」の中には、僕が不快に思わない音もあるんだなーとその時実感した。

 

それと同時に僕はこう思った。

頭の中で生じている「不快感」とか「怒り」とか、そういった負の感情というのは、ただの「思い込み」とか「幻想」なんだな、と。

 

だって、そのときも、僕の耳に聞こえている「音」に変化はない。ただ、それを僕自身が「床が軋む音」と認識しているか、「雨粒が手摺にぶつかる音」と認識しているかによって、僕の「感情」が変わっている・・・ということになる。

つまり、この体験は、僕が置かれている現実の状況は同じでも、その時々の「認識(思い込み)」によって「感情」が容易に変わってしまうということを示唆している。

 

人間の感情というのは非常に難しい。コントロールできそうでコントロールできない。これは今後の僕の人生における大きなテーマなのかもしれない。