箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

友人との交流を捨てたと語る女性に共感しかない。

最近たまたま読んだ記事なんだけど、世の中には自分と同じような感覚の人が居るんだなーと思った話。

 

esse-online.jp

 

こちらの記事に出てくる小笠原さんは、所有物を減らし、ものを買わないというミニマリズムな生活を送ってきたという。さらに、氏は、物だけでなく正規雇用の仕事や友達との交流も捨てたと語る。

 

まず45歳にして、私は正規雇用の仕事を捨てました。それから友達との交流を捨てました。ともに私にとってストレスだったからです。

(中略)

友達はまったくいないわけではなく、心が通じ合う数少ない人はいます。でも定期的に会ったり、一緒に外食するような友達はいません。むしろそこまでべったりする相手は要らないと思っているからです。

私の場合は、交際費をゼロにするというを日々のルールにしているので、自然とひとり行動をするようになっています。これは我慢ではなく、ひとり行動が好きだからやっていることです。

 

僕には物欲があるので、物を持たないという主義・主張については共感できないが、友人との交流がストレスだから捨てたという部分は本当に理解できる。たぶん、この方は、友人との関係性を切るべきかどうかを悩み続け、45歳にしてようやく「要らん」という結論に達したんじゃないかと想像する。

 

かくいう僕も幼少の頃からひとり行動が好きだった。

 

友達が居ないせいで、仕方なく一人で行動していたわけでもなく、一人で行動していたことに寂しさを覚えていたわけでもない。この方と同じく、好きだから自然と一人だった。一人で妄想の世界に耽り、一人で黙々と何かをして遊ぶ。誰にも干渉されずに、好きなところに行って、好きなことをする。とにかくそれが僕の人生の楽しみ方だった。

 

だけど、いつしか、「友達と一緒に居なければならない」という集団幻想に陥るようになっていき、他の人と歩くスピードが合わない僕は、その中で苦しみばかりが増殖していった。行きたくもない場所に行き、やりたくもないことをやり、言いたくもないことを言う。まるで動物園の檻に閉じ込められた野生動物のように。

 

例えば、僕は海外旅行に行くと、自由気ままに街歩きをしたくなる。知らない国の、知らない道をのんびりと歩き、見たこともない景色を心に焼き付けるのが好きだったから。それこそ、露天が立ち並ぶ鬱蒼とした路地裏を発見したときは、まるで自分だけの秘密基地を見つけたような気持ちになって、僕の心は軽やかに踊りだす。

だけど、そんな趣味を持っている奴は僕の周りには居ない。友人と一緒に海外旅行に行けば、移動は常にタクシーを利用することになり、決められたペースで観光スポットを効率的に巡ることになる。それが「普通の人」の「普通の海外旅行の楽しみ方」だからだ。

 

また、ある時、こんなことがあった。

 

友人と食事をして、夕方頃に早めの解散ということになった。別れ際に、僕は駅前の商業施設で買い物をして帰ると友人に伝え、そのまま別れようとすると、何とその友人は買い物に付き合うと言い出すではないか。僕は必死に「ブラブラと買い物をしたいだけだから」「付いてこなくて大丈夫だから」と諭したが、その友人は「時間があるから大丈夫」と言って僕に付いてきた。「普通の人」は、「1人でブラブラと買い物がしたい」という感覚が理解できないらしい。

 

なんでこんなストレスを感じながら、無理矢理に歩調を合わせなければならないのか。ただの罰ゲームではないか。だから、僕は友人との交流をほぼ捨てた。

 

以前、別の記事でも書いたとおり、友人の有無というのは、その人の人生の楽しみ方に帰結するだけで、幸福度となんの関係もない。友人がたくさん居る人(友人は必要という価値観を持っている人)からすれば、友人が居ない人は不幸に見えるかもしれないが、逆に、友人不要論者からすると、そういう人こそ不幸に見える。だけど、それは自分の尺度で他人の幸福を適当に見積もっているだけであり、幸福かどうかは本人の物差しが決める。

 

pochitto.hatenablog.com