箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

人との接し方を見直す。

僕はいわゆる「HSP」と呼ばれる気質を持った人間だ。

 

人と接するときは、どうしてもその人の顔色が気になってしまい、思ってもないことを口にしたり、無理に同調したり、必死に愛想笑いをしてしまう。

そうやって他人を気遣い続けた結果、「マウント気質の人」や「依存体質の人」がワラワラと寄ってきて、傷つくような嫌味を言われたり、馬鹿にされたり、好き勝手に価値観を押し付けられたり、雑に扱われるような人生を歩むことになってしまった。少なくとも、20代後半ぐらいまではそういう人生だった。

 

そういう人生に疲れ果てた今、僕はほぼ全ての人間関係を捨て、「もっと自分を大切にしよう」「自分の人生を取り戻そう」としているのだけど、多くの心理カウンセラーが指摘するように、HSPの根底にあるのは、「自分のことを愛して欲しい」という承認欲求と、その反面として、自分を雑に扱ってくる人間たちへの不安や憎悪である。

承認欲求については、「他人に期待・執着しない」と自分に言い聞かせることによって、何とか抑制出来るのだけど、不安や憎悪については向き合い方が非常に難しい。気にしないようにしても、何度もぶり返してきて、頭の中で反芻を繰り返す。この反芻は決して止むことがなく、「アイツと関わっていなければもっと楽しい人生だったんだろう」とか、「なんであのときの自分は、自分の感情に素直になれなかったんだろう」といった後悔の念が胸を襲うこともある。

 

ただ、この何度もぶり返してくる感情のおかげで、僕は人との接し方を間違えずに済んでいるし、人生の満足度が常に高い状態を維持できる距離感を保っていられるのだと最近は思う。負の感情を抱いている過去の人間に対して、特にプラスの感情を持つことは無いけども、僕にマウントを取ってきた人たちは、人との正しい接し方を教えてくれた人生の初期ステージ限定のモブキャラなのだ・・・と、最近は思うようにしている。

 

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ここから先は、僕が学んだ「人との接し方」を自分なりに総括してみたい。

 

まず、マウントタイプの人たちと関わったおかげで、人に対する変な期待が無くなった。

僕は子どもの頃から、自己評価が異常に低く、他人のことをやたらと持ち上げる傾向があるんだけど、自分の弱さに漬け込んでくるマウントタイプの人間の本性が理解できた途端に、「人間なんて全員大したことない」と思うようになった。もちろんそんな人間ばかりではないのはわかっているけども、人間というのは多かれ少なかれ全員似たようなものであり、不完全で未熟な生き物である・・・ということを強烈に意識するようになった。もちろん、自分も含めてだけども。

 

だから、再三言うように、他人に対して何も期待していないし、必要以上に愛想を振り撒こうという気もない。最低限の礼儀とマナーを守って接していれば良い。というか、ある程度は適当でも良い。本当に大切な人との関係さえ大事にしていけば良いのであって、そうじゃない人との関係は本当に「必要最低限」で良い。

 

また、「遠慮」や「我慢」は何の意味も為さないということを学んだ。

HSP側の認識としては、遠慮や我慢をすることで「良い人」を演じているつもりであり、その優しさが相手に伝わっていると思っているけども、別に相手は「我慢してくれ」と頼んだわけではなく、こちらを「良い人」だなんて思っていない。普通の人なら、「自己主張をしない人」「自分の意見が無い人」と認識するだろうし、マウントタイプの人なら、「強気に出れる人」「マウントを取れる人」と認識する。だから優しさなんて返ってこないし、HSP側には何のメリットもない。

 

なので、人と接するときは、遠慮や我慢なんて一切する必要がない。何度も言うように、失礼のない範囲で、「自分はこう思う・こう感じている」と堂々と意思・感情を伝えればいい。別にそんなことで不快に思う人なんていない。

また、無理に同調して愛想笑いをしなくていい。僕が思うに、愛想笑いは「妥協」であり、相手を立てるための「接待」である。つまり、愛想笑いをした時点で、人によっては「服従」と受け取る人もいる。本当に心の底から笑ったときだけ笑えばよく、基本的には堂々としている人の方が、「ちゃんと自分を持っている人」「自分に自信がある人」と受け取られて信頼されやすい。

 

そして一番重要なことを。

 

マウントタイプの人間たちの振る舞いのおかげで、自分の中に怒りの感情は残ってしまったものの、それと同時に「絶対に自分は人に対して同じ振る舞いはしない」と固く決意するようになったし、自分と同じような境遇の人にとって何か助けになることをしたいと思えるようになった。僕にとっての対人関係というのは、自分が何かを得るためのものではなく、誰かに何かを与えるためのものだと思うようになったからだ。

 

僕は、信頼とか、安らぎとか、喜びとか、あるいは救いとか、そういうものが対人関係で得られると数十年にわたって信じ込んできたけど、そんなものが対人関係で手に入ったことなんてほとんど無かった(妻を除く)。だけど今になってようやく分かった。対人関係とは何かを得るためではなく、何かを与えるためにあるんだ、と。「人生は与えたものしか残らない」と言うけれど、その意味がほんのり分かってきた気がする。

 

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結びに。

 

僕は、最近後悔することが多かった。もっと若い頃に自分のやりたいことをやっておけば良かったとか、嫌なことに対してはちゃんと嫌だと意思表示をして、そういうものと距離を取れば良かったとか、そんなことばかりが頭をグルグルと巡っていた。

 

だけど、最近は少し考え方が変わってきて、若い頃の経験が無ければ、今のような苦しみは無かっただろうけど、その代わりに本当に大切なものにも気づかなかっただろうと思っている。そしたら、平々凡々と30代に突入し、何ら代わり映えのしない退屈で怠惰な日々を送っていたに違いない・・・と。

しかし、若い頃に人間関係で痛い目を見たおかげで、幸運にも30代で人生の軌道修正をすることが出来たし、凄く大切なことにも気づくことができた。これは決して遠回りをしたわけでもなければ、人生の時間を浪費したわけでもなく、ちゃんと自分の人生において必要な経験を積むことが出来たと考えるべきなのだ。今はそう思う。

 

ちなみに、Youtubeで人との接し方についての動画を見ていると、コメント欄には驚くほど自分と同じ感情を抱いている人たちがたくさんいて、「あぁ、自分だけじゃないんだな」としみじみ実感した。みんな自分の感情に蓋をして、我慢しながら生きてきたのだ。

 

・・・仲間がいる。そう思ったら急に気持ちが軽くなり、頑張って生きていこうと思えた。これからもゆっくり丁寧に。誰かのために。