箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

「反応しない」ということ。

僕は今年で36歳を迎える。四捨五入すれば40なので立派なアラフォーだ。

恐れながら、健康マニアの方であれば既に知得している情報だと推察するが、日本人男性の平均健康寿命は約72歳であり、健康寿命という観点から見れば、僕は既に折り返し地点に差し掛かっているということになる。ゴールが見えないマラソンを走っていたつもりが、気づいたら折り返し地点の給水所に到着していた…というわけだ。

 

というわけで、僕はこれから先の人生を「第2部」と呼ぶことにした。さながら、上杉和也が亡くなった後、その意志を受け継いだ兄・上杉達也が野球部に入ることを決意するタッチの第2部のようだ。まあ、僕の人生において、誰一人として兄弟は死んでいないし、そもそも僕に弟はいないが、細かいことは目を瞑ってくれ。とにかく、これは僕の人生の第2部なのだ(知らんがな)。

 

さて、突然だが、僕の人生の第2部のテーマを発表しよう。

…それはずばり「反応しない」だ。

 

僕のこれまでの人生は、「反応しない」というテーマとはむしろ真逆で、ありとあらゆるものに「反応してきた」と言っていい。周囲の友人たちの声に反応してきたし、ネット上で交わされる色んな声にもいちいち反応してきた。僕に近寄ってくる人たちの声は漏れなく全て反応してきたんじゃないだろうか。ちなみに、「反応してきた」というのは、自分の意見を述べるとか、Twitterクソリプを送るとか、そういう具体的な行動を言っているのではなく、「自分から首を突っ込んで心を揺り動かされてきた」という意味である。プラスの意味でも、マイナスの意味でも。

そして、僕はたとえ友人関係で疲弊しようが、死ぬほど嫌な思いをしようが、心をグチャグチャに踏み荒らされようが、それを耐え忍ぶことが人生だと信じてやまなかったし、しんどい思いをすることが人生の本質とさえ思っていた。とんだドM野郎である。だから、本当は嫌だと思いつつも、苦手な人にもぶつかっていったし、しんどい事からも逃げずに挑戦していった。まあ、自分からそういう環境を作っていったのだから、大抵の場合はマイナスの方向に「反応する」ことになるわけだが。

 

このブログでも昔取り上げたことがあったが、僕がまだ企業法務をやっていた頃に、僕が書いたブログ記事に反応してくださり、「会って話したい」と連絡してくださった会社の社長さんがいて、その方に会いに行ったこともあった。あの頃は、そうやって見ず知らずの人と会って話すことが成長に繋がると思っていた。

そりゃまあ、何かしらの意味はあったと思う。普通に考えれば、人脈を増やしていくことは悪いことじゃないし。だけど、少なくとも僕はそういうタイプじゃなかった。見ず知らずの人と打ち解けて、「今度またご飯でも行きましょう」と胸襟を開くコミュ力を習得しているわけでもなく、その時もお会いしたのはその1回きりで、その次の機会が生まれたわけでも無かった。そういうタイプにもかかわらず、僕は「反応した」のだ。

 

そのような経験を経て、今の自分に満足出来ているのであれば、僕は喜んでこれからも反応し続けよう。だが、残念なことに僕の人生は良い方向に向かっていない。色んなことに反応してきた結果、僕の心は疲弊を通り越して空中分散し、自分の心がどこにあるのか皆目検討もつかないぐらいに粉々になってしまった。

いや、もっと正確に言うのであれば、「本当は嫌だと思っている自分の心を無視して、嫌なことに首を突っ込み続けた結果、首だけがもげてしまった」とでも言おうか。どこかに転がっていってしまった僕の首は果たして一体どこにあるのか。

 

そう。もう嫌なんだよな。そうやって嫌なことに反応するのは。

 

そこで、僕は自分の人生の第2部を開始するにあたって、反応せずに済む環境を構築しようと思い立った。心がザワザワしてしまう友人・知人とは距離を取るようになり、SNSもほとんど見るのをやめた(元からほとんどやっていないが)。意見が対立している問題も華麗にスルーするし、意識高い系の動画なんて毒でしかないと思っているので視界にすら入れない。

代わりに、僕は自分が「心地良い」と思う人とだけ繋がりを持つようになった。そういう人たちとしか会話をしないし、そういう人たちのコンテンツしか見ない。情報が偏っていると言えばそうかもしれないが、別にそれで良いと思っている。だって、心が穏やかでいられるから。

 

だから、現在の僕の人生はとても心地良い。心がザワザワと反応することがないから。怒ることもないし、落ち込むこともないし、嫉妬することもない。過去を振り返ったときに嫌な気持ちになったり、日々の生活の中でどうしてもイライラしてしまったり、そうやって心が反応してしまうこともあるが、それは僕の人生のこれからの課題でもある。

 

そういう最近の出来事を通して、僕は2つ思うことがある。

 

ひとつは、自分が心地良いと思うコミュニティの重要性である。それは、好きなゲーム実況者さんのチャンネルでも良いし、趣味のサークルでも良い。インタラクティブな環境でも良いし、そうじゃなくても良い。それが自分の家族だと言うなら、もちろん家族でも問題ない。とにかく心がザワザワしなくて済む心地良い環境を見つけて、基本的にはそのコミュニティだけで生活を完結させる。それ以外の人と無理に繋がる必要はない。

もうひとつは、自分が心地良いと感じるコミュニティ以外の情報はノイズでしかないので、基本的には無視する…ということである。まあ、要するに「反応しない」ということなんだけどね。僕は現代ネット社会で喧伝されている「多様性」は詭弁でしかないと思っていて、多様性というのは、異なる思想・価値観を持つ人たちを同じ屋根の下に集めて相違点を認めさせる…ということではないと考えている。本当の多様性というのは、それぞれのコミュニティの独自性を尊重してお互いに関わらない…ということだ。だから、よく分からないコミュニティとは関わらなくて良い。あわよくばSNSなんてやらない方が良い。それが多様な生き方ということなんだから。

 

自分が心地良いと思う繋がりだけを大切にして、それ以外のノイズには反応しない。

こうやって言葉にしてみると簡単そうに思えることだけど、少なくともこれまでの僕の人生においては難しいことだった。だけどもういいかな。自分の気持ちに素直になっても。僕はもう「反応しない」。