箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

「デザイン的な上手さ」について考えてみる。

最近はボーッと本を読んだり、ネトフリで「地面師たち」を一気見したり、カフェに気分転換をしに行ったり、生産性があるのかないのかよく分からない時間をグダグダと過ごしていて、そんな時間を過ごすぐらいだったら、何でも良いから絵を描けよと自分に言いたくなるような日々を過ごしている。

 

ただし、生産性のない無為な日々を送っている中にも、色々と学びはある。

 

最近、インスタで「Natalie Andrewson」というアーティストの存在を知ったのだけど、この方のファンタジー世界観が凄く素敵で、思わずホッコリとしてしまう温かみのある可愛い絵に心を奪われてしまった。

 

 

もっとも、ナタリーさんの絵は、素敵な世界観を醸し出している一方で、いわゆる「平面塗り」と呼ばれる簡易な塗り方をしており、細部を描き込むわけでもなく、技術的なことを言えばズバ抜けて上手いというわけではない。いや、正確には「上手い絵」なんだけど、上手さの尺度が違うというか、世間一般的に「上手い」と言われている絵とは質が異なっている。

 

なんというか、「デザイン的な上手さ」と言えば良いんだろうか。

情報量を増やして上手く見せることは誰でも出来るけど、ナタリーさんのように情報量を減らしながら、それでもなお上手く見せることはなかなか出来ることではない。例えば、漫画家で言えば、ワンピースの尾田先生がまさにそういう絵柄だけど、ああいう絵柄は「上手い」とは言われづらいし、どうしても好みが分かれてしまう。週刊連載だったらなおさら難しい。

 

かくいう僕は、ナタリーさんのような「デザイン的な上手さ」に憧れつつ、なかなかそれを描くのが難しいので、「写実的な上手さ」に振り切って描いてきた。

すなわち、「写実的な上手さ」は、資料さえあれば、あとはその資料のディテールを絵として再現すれば良いだけなので、ひたすら時間をかけて細部をこだわり、情報量を増やしていけば、いずれ納得のできる上手い絵になる。ある程度、基礎画力を持っていることが前提となるが、逆に言えば、一定以上の基礎画力さえ持っていれば、誰でも到達できるのが「写実的な上手さ」なのだ。

 

マテウシュ・ウルバノヴィチさんも似たようなことを指摘していたけども、「写実的な上手さ」はある種の麻薬みたいなもので、良い資料さえあれば誰でも実現できてしまうため、思わずそっちに逃げたいという誘惑に駆られてしまう。

僕は、今年の1月から取り組んでいた漫画において、「デザインにこだわろう」と思っていたんだけど、知らず知らずのうちに、途中から資料を見ながら描く方針になっていき、気づいたら「写実的な上手さ」だけになってしまっていた。「写実的な上手さ」というのは、それだけ強い魔力を持っているのだ。

 

ちなみに、少し話が脱線するけど、故・鳥山明先生が天才と言われているのは、「写実的な上手さ」と「デザイン的な上手さ」を両立させられるからだと僕は考えている。

技術的なことを言えば、鳥山先生よりも写実的な絵を描ける作家はいるのかもしれないが、鳥山先生のように、現実世界には存在しない空想上のキャラクターや生き物をデザインして描ける作家はそうはいない。鳥山先生が唯一無二と言われるのはそれが理由であり、僕も漫画家の中で一番絵が上手いのは鳥山先生だと思っている。

 

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話を元に戻そう。

 

僕が思うに、「デザイン的な上手さ」というのは、何度も試行錯誤を繰り返しながら、自分の中に「デザイン的な視点」を構築していくことでしか実現できないと思う。

 

上述のマテウシュ・ウルバノヴィチさんは、自身の著書「見えるものを描かず、見えないものを描く」の中で、宮崎駿先生を例に出し、あれだけの才能を持ったアニメ界の巨匠でさえ、最初からイメージが固まっているわけではなく、何度も何度もストーリーボードを描き直しながら、自分のイメージに合ったものを探していると指摘している。膨大なトライアンドエラーを繰り返すことでしか、自分の理想に近づく方法はないのだと。

 

僕は、これを聞いたときに、思わず「なるほどなぁ」と唸った。例えば、「木を描いてください」と言われたら、資料写真を見ながらいくらでも写実的な木を描くことは出来るけども、ナタリーさんの描く「有機的で生き物のような木」を描くことはできない。そんな木はどこにも存在しないし、そういうイメージも持っていないからだ。何度も何度も木を描きながら、「有機的で生き物のような木」のイメージに近づいていくしかない。

 

以上の点を踏まえて、今後どうやって「デザイン的な上手さ」を追い求めていくのか、次回にもう少し詳しく掘り下げて書いてみたい。