箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

漫画の映像演出について色々と思うこと。

今日は、漫画の映像演出について色々と思うことを書いてみる。

 

漫画における「演出」とは、すなわち「コマ割り」のことを指すのだけど、コマ割りと一口に言っても、色んなコマ割りがある。その作家さんの個性に委ねられている部分であり、絶対にこうしなければならないというルールがあるわけでもない。ただ、方向性という観点から見ると、大きく分けて2つの方向性があるのではないかと僕は勝手に分析している。

 

その2つの方向性とは、「写実性」or「コミカルさ」である。

 

そのまんまだけど、「写実性」を重視すればするほど映画っぽい映像演出に傾倒することになり、「コミカルさ」を重視すればするほど漫画っぽい演出になる。一般的な傾向としては、テーマや世界観を見せることに重点を置いた青年漫画は前者、キャラの魅力を伝えることに重点を置いた少年漫画は後者が多いと感じる。

 

例えば、宮崎駿先生の「風の谷のナウシカ」は完全に映像演出の観点から描かれた漫画であり、まるでアニメ映像を見ているかのような感覚に陥る。このような演出を採用している作品の場合、デカデカとキャラの顔をアップで描くということはあまりなく、工夫を凝らしたカメラワークで背景も緻密に描く点に特徴がある。青年漫画はそういうものが多い。

 

 

逆に、ジャンプをはじめとする少年漫画の多くは、写実性よりもコミカルさを重視していて、カメラワークに工夫を凝らすというより、「キャラクターの表情やポーズをいかに魅力的に見せるか」ということに労力が割かれている。そのため、映像的なパースを意識せずに平面的な構図で描くこともあるし、キャラの顔をアップで描くことが多いのも特徴のひとつだと思う。

(ちなみに、もっと分かりやすい例でいえば、「ガビーン」といった記号的な表情とか、スピード線・集中線といった漫画ならではの表現がコミカル演出の典型例である)

 

ただし、現代の漫画は、写実性orコミカルさのどちらか一方だけということはない。写実性の高い映像演出を採用しつつも、しっかりとキャラの顔をアップで描いたり、逆にコミカルな演出をメインとしつつも、映像的なカメラワークが意識されていたりする。

 

聞くところによると、少年漫画・少女漫画の世界では、昔はそれほど背景を描かなくてもOKとされていたが、今はある程度背景を描かないと厳しいと言われている。どんなにキャラ描写が重視される少年漫画・少女漫画であっても、ただキャラの顔を描いているだけではダメで、映像演出の視点が必要とされる時代なのだ。

 

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僕は少年漫画出身なので、どちらかといえばコミカルさの要素の方が大きい。だからコマ割りを考えるときも、「どうやってキャラの魅力を伝えるか」ということをメインで考えている時間が多いと思う。

 

もちろん、映像演出を考えないわけではないけど、映像演出はいわゆる「クレショフ効果」をはじめとして、キャラの感情や思考を必ずしもストレートに伝える表現手法ではないため、なるべくその要素を少なくすることがほとんどである(その要素が増えていくと分かりづらくなるから)。

ちなみに、僕は背景を描くのはそれなりに好きなんだけど、別に映像演出を深く考えているわけではなく、「引きの絵でキャラの状況を分かりやすく説明したい」といった意図で背景を描くことが多い。

 

とまあ、そんな感じでコマ割りを作ってきたため、ほとんど映像演出的な視点が自分の中にないということに最近気がついた。たぶん割合でいうと、コミカルさが「8」、写実性が「2」ぐらいの割合だと思う。

 

僕の中で、コミカル演出に傾倒してしまう原因は何となく分かっていて、ひとつひとつのコマを切り離して考えてしまい、キャラの演技を一連の映像として捉えていないこととか、キャラを分かりやすく描こうとする意識が強いため、インパクトのあるキャラの表情をドーンと描くことが多かったりだとか、キャラの背景を正確に描かず、カケアミモヤで背景を塗り潰したり、ふわふわとしたトーンで埋めたりだとか、そもそものストーリー展開自体をコミカルにしてしまったりだとか、そういうことが積もり積もって今の状況に行き着いている。

 

なので、映像演出にシフトしたいのであれば、これと逆のことをすれば良く、ちゃんと一連の映像としてコマ割りを考えるとか、安易にオーバーな感情表現に走らないとか、陳腐な表現を避けて「自分らしさ」や「自分だけの空気感」を模索するとか、過度にコミカルにならないようにストーリー展開に注意したりだとか、一応自分の中で対応策は分かっているつもりである。

 

ただ、その一方で、漫画の演出は、どういう面白さを追求したいのかという「企画・コンセプトの趣旨」に左右されるため、自分がやろうとしている企画に合わせて演出方法も変えていくしかない。

例えば、九井諒子先生の「ダンジョン飯」はコメディ漫画であり、映画的な演出よりも、いかにも漫画っぽいコミカルな演出の方が合っている(実際そう描かれている)。もし仮に映画的な演出でこの漫画を描いてしまったら、チグハグな違和感を読者に与えることになってしまうだろう。どこまでいっても、「演出」と「企画」はセットなのだ。

 

 

だから、どんなに「映像演出に凝った作品を描きたい」と思ったとしても、それに合った企画が思いつかなければ意味はない。コミカルな演出が得意だというなら、本来はコミカルな演出が活きるテーマ・ジャンル・企画を考えるべきなのだ。

 

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でも、包み隠さずに正直に申し上げると、コミカルな演出にお腹いっぱいになっている自分がいて、「うぎゃー」「どひゃー」みたいな分かりやすい表情を描いたり、大きな描き文字や集中線で迫力を出したり、キャラの背景を省略してそれっぽいエフェクトを描いたりすることに若干辟易としている。

こういったコミカルで記号的な表現は、確かに分かりやすいのだけど、「陳腐でありきたり」「没個性的」「下手に見えがち」といった問題も同時に孕むことになる。なぜなら、分かりやすい表現というのは再現可能性が高いということであり、他の作家も真似して同じような描き方ができるからだ。例えば、カケアミモヤなんて、クリスタでモヤを描けるブラシをダウンロードし、適当に描き殴っているだけで、それっぽい絵に仕上げることが出来てしまう。そりゃこんなに簡単に描けるなら誰でも同じことをやるだろう。

 

しかし、簡単だからといって、そういう安易な描き方に走ってしまうと、他の作家と差別化出来なくなってしまうだけでなく、陳腐な表現なので思い切り下手に見えることもある。いい加減そういうコミカルな演出を卒業し、単に絵が上手い作家というだけでなく、演出が上手い作家を目指すべきなのだと思う。僕が移籍を考えている青年誌の世界も、明らかに演出の上手さを重視している。だったらなおさらだ。

 

冒頭にも述べたとおり、コミカル演出が良しとされている少年漫画の世界においても、映像演出がある程度必要とされる時代である。だとしたら、以下に挙げる点を最低でも意識しつつ、「自分らしさ」とか「自分だけの空気感」を出していきたいと思う。

 

  • ストーリー展開を過度にコミカルにしない。
  • 記号的でありきたりな表情を描かない。
  • なるべく顔のアップを大ゴマで描かない(むやみに感情表現をオーバーにしない)。
  • 既視感満載の陳腐なスピード線・集中線・描き文字等を描かない。
  • キャラの演技を一連の映像として捉える。
  • カメラワークを工夫して単調な絵・構図を避ける。
  • 絵そのものは写実的じゃなくてもよく、むしろ個性的な絵でいい。