箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

本当の自由を求めて諦めと適当の境地に迫る。

最近、新しいことをやろうと脳をフル回転しているせいか異常に疲れやすくなった気がする。

頭の中でごちゃごちゃとしている思考のスクラップをいったん寄せ集めて、「不要なもの」と「必要なもの」を峻別し、頭の中に残した「必要なもの」を眺めながらどう再利用しようかと思考を巡らせているうちに、また「不要なもの」が増えているような感覚だ。せっかく不要な服を捨てたのに、着るかどうか分からないユニクロのヒートテックの肌着をすぐに買い足しているようなもんである。

 

そもそも、この疲れやすさの根本原因は、周囲の目を気にしすぎているからだろうなと思う。最近、青年漫画への移籍を決意したばかりだけども、青年漫画の理想像とか、自分が投稿を考えている雑誌の作品傾向とか、そんなことばかりに神経を使って、見事に精神を摩耗しまくっているのが今の僕だ。

というか、少年漫画を描いていた頃からずっとそんな感じで、ネームが落選するたびに「少年漫画らしさ」をますます追い求めるようになり、自分の描きたいものからどんどん乖離していくような錯覚さえ覚えた。もといそれは錯覚などではなく歴然たる事実だと思う。

 

自分の好きなことをやればいいというのは分かっている。他の漫画家が何を描いていようと、世の中のトレンドがどうだろうと、自分のやりたいことはこれなんだと胸を張ってそれを追い求めれば、それを「良い」と言ってくれる人は必ず出てくる。

しかし、「言うは易く行うは難し」である。年齢を重ねるごとに、社会の常識や世間体に染まっていき、世のスタンダードからズレればズレるほど尻込みをしてしまう。変だと思われるんじゃないか、叩かれるんじゃないか、否定されるんじゃないかという恐怖がつきまとい、結局他の人と同じやり方に流されてしまう。年齢を重ねて知識や思考が練磨されるということは、同時に「恥」とか「躊躇」を生み出すことを意味している。

 

じゃあ、その「恥」という名のストッパーを外すためにどうすればいいのか。その点について僕は、「もうどうでもいいや」「どうとでもなれ」というある種の諦めが必要になるのではないかと思う。仏教用語にも「諦観」という言葉があるが、これは「真理を悟り、迷いを去った境地に達すること」と定義される。まさにこれである。

 

少し前の出来事だけど、担当編集から連絡があって、短めの読切を描いてみませんかと仕事のオファーを頂いた。僕は少年漫画をやめるつもりだったけど、最後に何か描いてみるかと思い、二つ返事でそのオファーを受諾した。

しかし、描けども描けどもネームが通らない。当初は「ジャンルは何でも良い」と言っていたのに、自分の好きなジャンルを描いて提出すると、「ジャンルを変えてくれ」と手のひらを返され、僕は頭を抱え込んでしまった。原稿の締切も迫っているし、ネームを意地でも通さなければならない。どうする、どうする・・・と逡巡しているときに、僕の中で「何か」が吹っ切れた。「もうどうでもいいや」と思ったのだ。僕は頭の中にポッと浮かんだギャグ漫画を勢いだけで描いたところ、それがめちゃくちゃ面白いという話になって、そのまま採用された。

 

僕はこの経験を通して、「何か」を掴んだような気もしている。

断っておくと、ストーリー性のないギャグ漫画を描きたいわけではないので、「次もギャグ漫画を描いて下さい」と言われても絶対に描かないし、ギャグ漫画に活路を見出したという意味ではない。そうじゃなくて、僕が掴みかけているのは「恥を捨てる」「自分をさらけ出す」ということの本質である。

 

僕が思うに、「恥」とか「躊躇」というのはすべて自分以外の他者との関係において規定されている。特に漫画のような創作物は「世間からこう思われたい」という見栄の裏返しであり、そこで意識されているのは、自己実現ではなくて外聞である。私たちは、必要以上に外聞を気にするがあまり、恥や常識に囚われてしまった哀しき囚人なのだ。

しかし、常識やトレンドなんてものは、所詮人間社会が生み出した集団幻想に過ぎない。私たちは、集団幻想にまみれながら、恥を忍んで、外聞を意識して、自らの行動を必要以上に規制し、せせこましく生きているのである。この常識の外に行くためには、「もうどうでもいいや」と諦めて、「自分をさらけ出すこと」に対する恐怖を振り切るしかない。常識に染まってしまった僕には、もうそれしか選択肢がない。

 

***

 

高畑勲監督の「ホーホケキョとなりの山田くん」には、父・たかしが「人生諦めが肝心です。諦めこそいかなる事態に出会っても、くじけたり折れたりキレたりしないための秘訣なんです」と言うシーンがある。また、学校の担任の先生が「適当。適当に、ね」と生徒たちを諭すシーンもある。僕は子どもの頃にこの映画を見たとき、「ギャグとして言ってるんだろうな」と理解していた。

 

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しかし、大人になってから改めてこの言葉を聞くと、それは決してギャグなどではなく、人生の本質なのではないかとさえ思う。恥や外聞を捨てて、常識の外側に一歩足を踏み出して、自分を曝け出すことの恐怖を拭い去るためには、「諦め」や「適当」が絶対に要る。執着を捨てて、「諦め」や「適当」の境地に到達して、初めて本当の意味での自由を手にすることができるんだと今になっては思う。

 

もちろん、ある程度世間の常識に耳を傾ける「真摯さ」も必要かもしれない。しかし、どんなに頑張ったところで社会との折り合いなんてどうせつかない。だったら、社会との折り合いなんて諦めてしまって、自分のやりたいように適当に生きた方が満足度や幸福度は高くなるはずである。

 

漫画というのはある意味で、そういう「諦め」や「適当さ」を習得するための修行なのかもしれない。