箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

「ノイズ」と「衝突」に溢れたこの世界で。

「石川や瀬見のをがはの清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む」

 

これは、鴨社の歌合にて鴨長明が詠んだ歌である。その歌合に居合わせた者の中に、「石川の瀬見の小川」という川の名を聞いた者が誰一人として居なかったため、長明が負けそうになったが、判者を務めた顕昭法師は、「石川の瀬見の小川」という語呂の良さに感銘を受けて、勝負を引き分けにした。後日、その言葉の意味を本人に尋ねたところ、鴨長明は「鴨川(賀茂川)の異名である」と答えた。これを聞いて、顕昭法師は「引き分けにして良かった」と安堵したという。

 

それ以後、「瀬見の小川」という言葉を使用した歌が増えたのだが、これを面白くないと思ったのか、長明と敵対していた親戚の鴨佑兼(かものすけかね)が「瀬見の小川というのは、高貴な雅名であって、日常の歌合で使うものではない」と難癖をつけた。また、「瀬見の小川」がブームになるや、「どうせ時間が経つにつれて、誰が最初に歌ったのか分からなくなる」と嫌味を言ったという。

 

しかし、鴨佑兼の思惑に反して、鴨長明の歌は高く評価され、「新古今和歌集」に10首入選するなど、歌人としての名声を高めた。特に、長明は「瀬見の小川」の歌が入選したことを大変喜び、「生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり」と語っている。

 

ただ、この出来事が鴨佑兼との対立を更に深めてしまったのか、河合社の禰宜の職に就こうとしていた長明は鴨佑兼に妨害されてしまい、神職としての出世の道を絶たれてしまう。その後出家して、閑居生活を送ったのは周知の通りだ。

 

超約版 方丈記

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長明のエピソードが示すように、この世は「ノイズ」や「衝突」だらけである。僕も嫌というほど体験してきたし、散々色んな人たちから批判されたり、除け者にされてきた。悲しいかな、そういう星のもとに生まれてきたんだと思う。

 

「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

 

これは夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭文である。

 

才覚を発揮しようとすれば他人と衝突するし、他人のことを気遣おうとすると、今度は足元をすくわれてしまう。他人とうまくやっていく方法などありはしない。人の世を生きようとする限り、他人というノイズを浴び続けなければならないのだ。その事実に気づいた人から、「人の世は住みにくい」といって、自分だけの静かな世界(芸術の世界)に逃げていく。

 

僕にとって、最も理想的な生き方は、「方丈記」や「草枕」なのだろう。他人のノイズを味わうことなく、自分の好きなように歌を詠い、描きたい画を描く。この世の無常を感じながら、ただ静かにゆっくりと過ぎゆく時間の中に身を置く。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」である。

 

これが最近の僕のテーマであり、「なるべく自分の世界から他人を消そう」としている。自分の世界に閉じこもっている人生の方が、他人と積極的に関わる人生よりもQOLが安定するということに気づいたからだ。少なくとも僕は、「友達がたくさんいるぜ〜!」っていう人を全く羨ましいと思わない。

聞くところによると、タモリさんは「友達なんかいらない」と言って、ほとんど友人付き合いをしていないと聞くし、脚本家の故・橋田壽賀子さんも、晩年はどんどん友達を減らしていたという。僕も同じタイプだと思う。

 

しんどいですもん。心にもないことを言わなきゃならない友達ばっかりで、ほんとの友達がいないから。

 

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橋田壽賀子さんのこの言葉は、まさに「情に棹させば流される」だと思う。

 

結局どっちかなのだ。「知に働けば角が立つ」か、「情に棹させば流される」か。

 

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ただ、そう簡単に人の世を捨てることなど出来ない。

 

タモリさんのように散々テレビで活躍して、お金もたくさん持っているなら、さっさとテレビから去って、自分だけの静かな世界に逃げることも出来るだろうけど、そうじゃないなら、いったん人の世で「ノイズ」や「衝突」を味わうしかない。

つまり、「なるべく自分の世界から他人を消そう」というのは、「可能な限り他人の意見や評価といった雑音を気にしないで生きていこう」ということである。この堅牢なる精神性を構築せねばならない。

 

ただ川がゆったりと流れるように。月が尋ねるほど澄むように。