箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

第3回漫画作品研究「リアルな人間描写と隙のあるキャラ作り」

実はひっそりと続いていた漫画研究シリーズ。その第3弾として、「ダンジョン飯」で有名な九井諒子先生の作品を取り上げたい。

 

 

僕の九井先生に対するイメージは「冨樫義博先生」である。人間の捉え方が何となく似ている気がする。「人間なんてこんなもんである」という鋭くもシニカルな目線と、その一方でそういう愚かしい人間を優しく包み込むような寛容性と、その両方が入り混じった重層的な作風だ。まさに冨樫先生と同じなのだ。

だから九井先生の作品は、決して美談では終わらず、現実を直視するリアリズムも兼ね備えている一方で、人間を醜悪なものとして単に貶すわけでもない。それゆえに、九井先生の描くキャラはどこか憎めず、読了後に好きになってしまう「何か」があると感じるんだろう。

 

そういうわけで、人間描写の巧みさでいうなら、九井先生は冨樫先生と双璧をなすと僕は思っている。こんなに人間描写が上手い作家はなかなかお目にかかれない。

 

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もう少し詳しく見ていく。

 

九井先生の作品は、人間描写のリアリティもさることながら、その一番の特徴は「隙のあるキャラ作り」にある・・・と僕は分析している。

 

すなわち、人間の負の側面をリアルに描ける作家はたくさんいる。例えば、浅野いにお先生や浦沢直樹先生はまさにそうで、「おやすみプンプン」とか「MONSTER」において、これでもかとダークな人間性を抉り出している。

しかし、「ちょっと間の抜けたキャラを描け」と言われると、途端にそれができない。もしそれをやろうとすると、多くの作家は少年漫画に出てくるギャグキャラになってしまう。

 

例えば、白浜鴎先生の「とんがり帽子のアトリエ」という作品では、とてもシリアスなシーンが多いにもかかわらず、少年・少女漫画のギャグシーンのような泣き顔(焦り顔)が多用されている。なぜこのシーンでその表情なのか・・・という違和感が半端ない。

こういうギャグのような表情を使うことで、主人公に「可愛いキャラ」「隙のあるキャラ」という印象を持たせたいのだろうけど、このやり方では読者を混乱させるだけだし、せっかくの緊迫の場面が台無しである。白浜先生には申し訳ないが、僕はやらないほうが良いと思っている。

 

つまり、ほとんど多くの作家は、「真面目なキャラ」か「ギャグキャラ」のどちらかしか描けないのに、九井先生は「隙のあるキャラ」という重層的な人間を描くことができる。そのどちらでもないのだ。

例えば、九井先生の短編作品集「竜のかわいい七つの子」に収録されている「子がかわいいと竜は鳴く」では、物語の終盤、暗殺者ヨウがいつ自分の正体に気づいていたのかと王子に尋ねる場面があり、ここで王子は「たった今だ」と返す。すると、ヨウは「思っていた以上にアホだなこいつ」と呆れた顔で呟く。非常にシリアスな場面であるにもかかわらず、思わず「ふふっ」と笑ってしまう間の抜けた会話だ。九井先生の作品ではこれが成立してしまう。

(こういうところに冨樫先生っぽさを感じる)

 

 

人間には、負の側面もあれば、正の側面もあるし、どちらでもないニュートラルな側面もある・・・というのが本当の意味での「リアル」だし、僕たちはそういうあっちに行ったり、こっちに行ったりする「隙のある人間」を愛おしく感じる生き物なのだ。

 

・・・九井先生の作品に溢れているのは、そういう「生に対する希望」のような気がしている。僕はそう思う。

 

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閑話休題。

 

確か、ジャンプ+だったと思うけど、少年とアンドロイドの交流を描いた読切作品を読んだことがあって、それは最初から最後まで丁寧に少年の心情を追いかけた綺麗な作品だった。

ただ、題材自体がありふれたものであり、設定も変わったところがなかったので、少年の心を大真面目に掘り下げようとしても、どこかで見たことがある作品にしかならなかったのが惜しまれた。どうしても「既視感がある」「同じような心情を抱いた主人公を他所で見たことがある」という感想になってしまうのだ。

 

結局のところ、人間の「明の側面」とか、「暗の側面」といったものは、色んな作家が散々描き尽くしていて、もはや新鮮な部分がほとんど残っていない。九井先生のように、そのどちらでもない「ニュートラルな部分」も同時に掘り下げていかないと新しくはならないように思う。