昨年、とあるラジオの企画にて、「Dr.マシリト」で有名な元ジャンプ編集長の鳥嶋和彦氏と「チェンソーマン」「スパイファミリー」「ダンダダン」の担当者として有名な林士平氏の対談があった。
僕はこの対談があったことを知らず、今更になって対談内容を調べてみたところ、非常に興味深いというか、とても考えさせられる内容だったので、この対談内容を少年漫画家の端くれが突っついていこうと思う。
(なお、対談を見た人が記憶を頼りに文字起こしをしたものを参照している)
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まず、最初に2人の主張を簡潔に言うと、
<鳥嶋氏>
・編集者が手綱を引いて作家をコントロールすべき。
・子どもでも楽しめる共通性や普遍性のある作品を作るべき。
・コンテンツが多様化している現代の漫画市場は「粗製乱造」である。
<林氏>
・編集者は作家の感性に任せて好きなように描かせるべき。
・世の中にとって価値のある作品を作るべき。
・現代の玉石混交とした漫画市場は「多様性」の現れである。
・・・・という感じ。
もっと簡単に言うなら、鳥嶋氏は「マス向けの漫画をもっと作るべき」という主張で、林氏は「多様化した現代人の好みに応えるニッチな作品で良い」という主張になる。
この2人の主張を整理したうえで、漫画家目線での意見を述べると、基本的には林氏の意見・主張に賛成であり、好みが多様化・細分化されてしまった現代において、全世代にウケるマス向けのコンテンツなんて存在し得ないと思っている。
ただ、鳥嶋氏の意見を全否定しているわけでもないので、もうちょっと掘り下げていく。
僕が思うに、マスメディアの代表格である「テレビ」が幅を利かせ、リビングで家族一緒に同じ番組を見ていた時代であれば、「マス向けのコンテンツ」が歴然としていた。お爺ちゃん・お婆ちゃん世代であっても、若者の間で流行っているコンテンツを容易に知ることが出来たし、その中にはお年寄り世代に刺さるものもあったからだ。例えば、SMAPの「世界にひとつだけの花」とかはまさにそうだろう。
だけど、これは「全世代が同じメディアコンテンツを一緒に見る」という前提条件があって初めて成立することであり、一部のファンしか享受していないメディアコンテンツが、そのまま大衆コンテンツになるということはない。
漫画界の王者であるジャンプも例外ではなく、全盛期に叩き出した653万部(1995年)という発行部数は確かに凄いが、日本全体の人口に照らしてたったの5%しかない。今も昔も一部の漫画好きが読んでるだけのメディアなのだ。
つまり、僕の考えによれば、ジャンプ雑誌がマスだったことは過去に一度もなく、「ドラゴンボール」「ワンピース」「NARUTO」「鬼滅の刃」といった一部の漫画ファンにウケていた人気作が、メディア露出(アニメ化・コラボグッズ)を通して、そうじゃない層にも浸透していき、その作品に限って一般大衆にもウケたというだけである。
しかも、この理屈で言うなら、マス向けのコンテンツとして一般大衆にも浸透した漫画原作は、「サザエさん」「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」の方が上だろう。そういう意味では、必ずしも「ジャンプ」=「マス向けの漫画」ではない。
確かに、鳥嶋氏の言うように、全世代に共通する普遍的なエンタメは存在すると思うが、テレビのような支配的なマスメディアを通して、全世代に向けて情報を発信できる環境が整っていた時代であれば別としても、様々な好みに合わせてメディアやプラットフォームが多様化した現代において、全世代にリーチできる媒体はなく、漫画コンテンツが一般大衆にも広がっていくということは俄に考えられない。
なお、漫画キャラの推し活をしている人がSNSの世界にはたくさんいるようにも思えるが、鳥嶋氏も指摘しているように、そういうオタク人口は(今も昔も)600万人程度しかいない。日本全体の20分の1だ。ほとんど大半の一般大衆は、漫画を読まないし、SNSで推し活もしない。この一般大衆も話題にするようになって初めて「マス」となる。
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にもかかわらず、そういう状況でマス向けの漫画を描こうとするとどうなるか。
これは少年誌で漫画を描いている僕が明確に断言しておくと、「作家も編集者もめっちゃしんどい」のだ。これに尽きる。
何度も言うように、現代はメディア・プラットフォームが多様化しており、漫画を読んでいるのは、一部の漫画好きのファンだけに限られている。しかも、この「一部の漫画好きのファン」というのは、好みや性癖も様々であり、全ての漫画ファンに共通する普遍的な好みなんてない。
それなのに、「全員が好きになるようなマス向けの漫画」を描こうとすると、作者の尖っている部分などを平均化しなくてはならず、その結果として誰の性癖にも刺さらない陳腐な作品が出来上がる。もっと悪い言い方をすれば、「誰も納得できないストーリー・キャラ」になるのだ。
例えば、JPRGの人気タイトル「ファイナルファンタジー(FF)」でも近年全く同じことが起こっており、皆にウケるマス向けのストーリーを作ろうとして盛大にコケている。超一流のシナリオライターを採用してもこの有り様だ。漫画とは少し事情は異なるかもしれないが、僕はほぼ同じ現象と理解している。
この状況に対して、鳥嶋氏は「編集者が手綱を引け」と言うけれど、今の編集者は「一般大衆の好みが分かる常識人」ではなく、どちらかと言えば「コアな漫画オタク」なので、一般大衆にウケるコンテンツが判別できず、まともに作家にアドバイスができないケースが多い。
また、誰も責任を取りたくないので、作家側に責任を押し付けて、「あなたの感性を尊重します。自由に描いてください」という風潮になる(林編集者がまさにそれ)。これなら、コケても作家一人の責任、上手くいけば編集の手柄・・・となる。おそらく大手少年誌でも、「一般大衆にウケるヒット作が出てきたら儲けもの」ぐらいに考えているんだろう。その空気感をヒシヒシと感じる。
そもそも、今の漫画ファンを納得させないと、コミックが売れないし、アニメ化・グッズ化されることもなく、一般大衆に裾野が広がっていくこともない。そのため、漫画市場に残ったコアな漫画ファンたちの好みの傾向を調べ、そこに合わせてピンポイントで作品を提供していくしかなくなる。
だけど、それは世間的に見れば偏ったオタクの趣味・好みなので、世間からは「マニアックな作品」と認識されて、結果として一般大衆は見向きもしない。マス向けのヒット漫画が出ない原因・理由はここにある。最近、ジャンプで連載がスタートしたヤマノエイ先生の「さむわんへるつ」は、深夜ラジオを聴くことを趣味としたハガキ職人が主人公なのだけど、明らかにマニアックな読者層を狙ったニッチな作品といえる。
こういうふうに、「性癖に刺さる人だけが読んでくれればいい」というスタンスでやってるのが今のジャンプだ。林編集者はこれを「多様性」と言い、鳥嶋氏は「それは都合の良いように逃げているだけ。ちゃんと共通性・普遍性を追求すべき」と主張する。
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もう一度、漫画家目線の話に戻そう。
漫画家目線で言うなら、
「マス向けの作品を描いてもコケる確率が高いし、かと言って誰も責任を取ってくれるわけでもなく、編集者が一緒になってマス向けの作品を考えてくれるわけでもない。それなら、ビッグビジネスにはならないかもしれないが、特定の性癖に刺さる作品を描いて、そのコアなファンにコミックを買ってもらい、自分の当面の生計を維持しつつ、ヒット作を狙っていった方が良い」
・・・という判断になる。
特定のコアなファンに刺さる作品で良いなら、その特定の読者層のことだけをリサーチし、ピンポイントで作風を調整していけばいいからだ。簡単とは言わないまでも、マス向けの作品を成功させるよりは圧倒的にハードルは低い。好みが多様化・細分化された現代においては、この方が理に適っているといえる。
もし、それを「粗製乱造」と言うなら、出版社はマス向けの作品が描ける可能性がある作家の生活の面倒を見つつ、マス向けの作品が描けるまで長期的な視点で作家と向き合うべきだと思う。
でも、そんなことをする余力はないでしょ?だったら黙っとれという話だし、そういう意味で、私個人としては林編集者の意見におおむね賛成している。作家からすれば、林編集者の言ってることの方がクリエイターファーストの意見に聞こえるからだ。
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ただし、何でもかんでも林編集者の言い分が正しいと思ってるわけではなく、「作家の感性に任せた方が良い」というのは、果たして本当なんだろうかと感じる。
例えば、2人の対談の中にも出てきた最近の「ワンピース」は、もはや「読みづらい」というレベルを通り越し、「何がなんだか分からない」というレベルにまで到達している。一般大衆が読んでいる漫画ではなく、まだ勢いのあった頃に獲得したコアなファンが、ずーっと惰性で読んでいる漫画という位置づけだろう。
このように、作家の感性に委ねると、一般大衆の趣味や好みからは大きくかけ離れていくのが普通である。鳥嶋氏が「編集者が手綱を引け」と言ってるのはそういう意味であり、何も間違っていない。
これは才能とかも関係ない。林編集者が「天才」と絶賛している藤本タツキ先生にしても、漫画ファンから熱烈な支持を集めていたのは、「チェンソーマン 第1部」とか「ルックバック」までで、編集を離れて自由に描くようになった「チェンソーマン 第2部」はほとんど話題を聞かなくなった。
もちろん、これが「藤本タツキの個性だ!」というなら否定しないし、実際これが好きで読んでいる人もいるだろうけど、藤本タツキ先生の才能に惚れ込み、第1部を夢中になって読んでいた読者も「あれ・・・?」と困惑して離脱している。実際、第1部が大好きだった僕も、構成や絵の雑さが気になって読まなくなってしまった。
ずばり、林編集者の言い分はここに落とし穴がある。
すなわち、読者の性癖に刺さる作品を描こうと思ったら、作家の感性・センスに任せるしかないが、ひとたびそれがウケると、周囲の編集者たちは誰も否定出来なくなってしまう。その感性にファンが付いてるわけだから。
また、「多様性」というなら、尾田先生や藤本先生のように「暴走してしまった感性」も認めなければならず、「多様性」という言葉を隠れ蓑にして作家に任せきりにしていたツケを払わなければならなくなってくる。自分たちで自分たちの首を絞めているというか。
なので、極端なことをいえば、読んでいる人がいるのかどうか分からない状態にまで部数が落ち込んだとしても、「多様性ですから」「これがこの人の個性ですから」と言って、そういう作品も肯定するのか?・・・・という話になる。
もちろん、ビジネスでやっているわけだから、そんなわけにもいかず、どこかのタイミングで打ち切りになるわけだけども、だったら「多様性」なんて嘘じゃないかと思ってしまう。それならなぜ最初から編集者が手綱を引かなかったのかと。
つまり、「多様性を尊重し、刺さる読者層にだけ刺さればいい」という方針は、ある程度の限度がある。何でもかんでも自由というわけにはいかないし、駄目なときはやはり駄目と言うべきであり、それが作家・出版社の双方にとって必要なんだと思う。
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あと最後に余談。
マス向けの漫画を作るのが激ムズである理由は、成熟しきった漫画業界の構造にもあると思っていて、今の漫画読者は数々の名作を読んできた玄人ばかりであり、その人たちを満足させようと思ったら、とんでもないレベルの作品を描く必要がある。
しかし、そんなことが新人作家に出来るわけもなく、「よーし!頑張ってマス向けのヒット作を描くぞー!」と意気込んで、ジャンプのようなメジャー少年誌に持ち込みをしても、「実力がまだまだ足りないのでもっと修行してね」と突き返されるのがオチだ。
ここで、新人作家には2つの選択肢があり、「歯を食いしばってマス向けの作品を描き続ける」か、「今の自分の実力でも描けるニッチな作品に逃避する」かのどちらかだ。んで、大抵の漫画家は生活費との関係により後者を選ぶことになる。何度も言うように、前者を選んでも誰も責任を取らないからだ。
(しかも、後者を選んだ作家もほとんどは成功できず、途中で漫画家を諦めるか、他誌へ移籍してしまう)
僕はここに漫画業界の構造的な欠陥があると思っている。
これだけ成熟しきった業界において、マス向けの作品なんてそんな簡単に描けるわけがない。作家・編集者が足並みを揃えて、じっくり時間をかけて作品のクオリティを上げていくことでしか、その領域に到達することはできず、ひょっとしたら、もはや作家個人でどうにかなる問題ではなく、その道のプロを何人も集めて、やっとこさ達成出来るレベルなのかもしれない。
ここが解消されない限り、林編集者のいうように、色んなニーズに応えられるニッチな作品を描いていくしかないと僕は思う。