箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

本当に気の合う人とは

最近、インスタのThreadsをちょくちょく見るようになったんだけど、その中で「ああ、まさにそれだな」と思わず唸ったものがあって、今日はそれについて取り上げてみたい。

 

その人は「本当に気が合う人」について、「趣味が合う」とか「好きなものが同じ」というように、好きな部分を共有し合える関係ではなくて、無意識的に「これやったら嫌がるだろうなー」とか「これはこの人苦手そうだから控えておこう」みたいに、嫌いな部分を共有し合える関係だと定義されていた。つまり、その人との「好き」を増やすより「嫌い」がなくなっていくことで、結果として居心地が良くなると結論づけており、「今あなたがその歳になっても関わりがある人というのは、苦手な部分がすごく少なくないですか?」と問いかけている。

 

僕は激しく首を縦に振って、「うん!その通り!」と激しく同意した。

 

僕なりに、その人の考え方を敷衍すると、おそらく10代・20代の頃は「好き」を共有できることの方が重要で、趣味や好みが一致していることが最優先事項だった。しかし、30代ぐらいになってくると、色んな価値観を受け入れられるようになり、むしろ「好き」と感じる部分が違っている方が面白いと感じるようになって、逆に「嫌い」と感じる部分が一致していることの方が重要になってきたように感じる。

 

僕自身の身近な例で言うと、10代・20代の頃に付き合いのあった友人というのは、同じ趣味を持っていて、同じ「好き」を共有出来ていた間柄なんだけど、大人になるにつれて僕自身の価値観も変わっていき、徐々に同じ「好き」を共有出来なくなっていった。そうすると、自然と「嫌い」と感じる部分だけが目につくようになり、居心地の悪さだけが増していった結果、そういう友人との関わりは30代半ば頃にほぼ消滅した。

なんというか、若い頃は「嫌い」と感じる部分があったとしても、それを上回る(覆い隠す)だけの「好き」があるので、それほど気にならないのだけど、大人になると、「好き」が一致していることに意味を感じなくなるせいで、「好き」によるバリア効果が消滅し、その背後にある「嫌い」がドドーンと前面に出てくるという感じだろうか。

 

よく大人になってから友人が出来づらくなるというけど、この考え方に従うのであれば当たり前だと思う。「好き」が一致している人を探すのではなく、「嫌い」が一致している人を探さなくてはいけないからだ。「好き」が一致している人を探すだけなら、趣味のオフ会に行けば良いけど、「嫌い」が一致している人を探すとなると、たぶんお見合いパーティのようなものを開いたうえで、何回か会って話でもしない限り分からない。その時点でハードルが高すぎるし、そこまでして友人を探そうという気も起きない。

んで、仮に「嫌い」が一致している人が見つかったとしても、その人と一緒に居る理由もない。「機会があればまた会いましょう」って言うだけだ。だから、大人になると、「家族」か「よっぽど気の合う昔からの友人」しか関わらなくなってしまう。ちなみに、僕の場合は「好き」も「嫌い」も共有できる人は妻しか居ないし、妻との関わりだけで別にいいやと思っている。実際、それで十分である。

 

僕が普段からボンヤリと考えている「居心地の良さ」というものについて、なんとなく言語化できた気がする。今までは「好き」という感情に着目していたけど、なるほど「嫌い」という感情に着目するのか。凄く参考になった。