箱庭的ノスタルジー

世界の片隅で、漫画を描く。

虚実的な作品における現実と虚構の連続的転換について

記事タイトルにある「虚実的な作品」というのは僕が考えた造語であり、現実と虚構が入り混じった世界観を有する作品のことを指す。

ただし、現実的な要素と虚構的な要素とが合わさっていれば、それ即ち「虚実的な作品」というわけではなく、僕の定義によれば、「現実と虚構の連続的転換」を要素とし、現実と虚構の境界線が曖昧な作品のみを虚実的な作品と位置づけている。

 

異世界転生系における現実と虚構の境界線

分かりやすいように異世界転生系の作品を例にとって説明してみよう。

 

異世界転生系の作品では、現実世界に暮らしていた主人公が、ふとしたきっかけで異世界ファンタジー世界へと転生し、そこで第2の人生を歩む…というテンプレになっている。現実的な要素と虚構的な要素の両面を有しているわけだ。

しかし、現実から虚構への転換は1回しか起こらないことが多く、一度転生したら異世界ファンタジー世界でずっと物語が進行していく。とどのつまり、現実と虚構の転換に連続性がない。

そういう意味で、異世界転生系における現実的な要素は、主人公に「普通の人」という属性を付加するためだけの要素であり、基本的にはファンタジーに主軸を置いた作品ということが出来る。

 

なぜ、そういった連続的転換性のない異世界転生系作品が「虚実的作品」に該当しないのかと言うと、現実と虚構の境界線が明瞭だからである。

 

異世界転生系作品では、異世界(虚構の世界)でずっと物語が進行していくため、読者は世界観を読み間違えることがなく、「これは虚構の物語だ」と認識しているし、作家もそれを意図している。

つまり、現実と虚構が入り混ざっているように見えて、実は両者は水と油のようにちゃんと分離しているということだ。僕の考えによると、このように現実と虚構の境界線がはっきりとしているものは、虚実的作品ではなく、現実と虚構のどちらかに主軸を置いた作品に過ぎない。

 

ラスト・アクション・ヒーロー』に見る現実と虚構の連続的転換

更に話を進めると、僕の言う「虚実的作品」とは、現実と虚構の境界線が曖昧になっており、今見ているものが現実の世界線なのか虚構の世界線なのかが、全体的または部分的に判然としないもの…と言うことができる。

 

例えば、「ラスト・アクション・ヒーロー」という映画がまさにそれだ。

 

この映画は、アクション映画が大好きなダニーという少年が映画の中の世界(虚構)へと迷い込み、アーノルド・シュワルツェネッガーの演じる「ジャック・スレイター」という人気役者とともに、映画の中の世界で大冒険を繰り広げるという胸踊らせるストーリーとなっている。

このあらすじだけ聞けば、異世界転生系と大して変わらないようにも聞こえるが、この作品は、物語の舞台が、映画の中の世界(コメディ)から現実世界(シリアス)へと移り変わり、最後には再び映画の中の世界へと転換するギミックになっている。つまり、現実と虚構の転換に連続性がある。

 

そのように物語の舞台が、現実と虚構を行ったり来たりするので、徐々に現実と虚構の境界線が曖昧になっていき、観客は、今自分たちが見ているものが「最後には必ず敵をやっつけるアクションヒーロー(虚構)の物語」なのか、「必ずしも予定調和とは限らない現実的な物語」なのかが分からなくなり、胸をハラハラさせる。

映画の中の世界では無敵だったジャック・スレイターが、敵に大怪我を負わされてしまい、もしかしたら死ぬかもしれないと懐疑的になるからだ。

 

ここまで説明すれば、何となく「虚実的作品」が何たるかをご理解頂けただろうか。

 

 

四畳半神話大系』に見る虚構を主軸とした現実の露出

浅野いにお先生の作品や今敏監督の作品のように、現実世界を主軸としつつ、その中に虚構的な要素を織り交ぜた虚実的な作品も好きだが、個人的には、森見登美彦氏の小説のように、ファンタジー路線を軸としつつも、時折現実に引き戻すような作品が好きだ。

 

例えば、四畳半神話大系の中に次のような描写がある。

「おまえかッ」

怒り狂った男が踏み込んできた。

後から把握したことだが、その男こそ、香織さんの持ち主であり、小津の師匠と「自虐的代理代理戦争」なる謎めいた争いを続けている城ヶ崎氏であった。

小津に対して共同戦線を張ってしかるべき二人が、そこで初めて対面したわけだが、それは和やかな握手ではなく、火花散る殴り合いから始まった。私は腕力に訴えるのを潔しとしなかったため、より正確に言えば一方的に私が殴られたわけである。

何のことやら分からないまま私は四畳半の隅へ吹っ飛ばされ、揺れたテレビからお気に入りの招き猫が転げ落ちた。

ー 小説「四畳半神話大系」角川文庫 276頁より引用

 

上記は、香織さんというダッチワイフを奪われた怒りに震える城ヶ崎氏が、主人公のことを殴りつけるという場面なのだが、森見氏の作品において、こんなに直接的な暴力シーンはあまり見られない。

普段は「おともだちパンチ」などと言って、ほんわかした世界観を演出しながらも、いきなりこんなシュールなシーンを書くところに森見氏のリアリズムが現れているように思う。